あー🥺4

「では司教様。これからしばらくは、おとなしくしていただけると」


「……」

 

 意識混濁している司教はムカームの声が聞こえているのかいないのか、煙を吸いながら横たわり、虚ろな目をして遠くを覗いている。


「明日には到着予定ですが、部屋からは出ぬよう……」


「……」


「それでは、ごゆるりと……」


 ムカームが部屋を後にしようとした時、朧な意識の中で司教が痙攣したように動き、口をもごつかせてこう聞いた。


「……また、人を欺き、簒奪するのか……」


 力の入らぬ声であったが、ムカームに対して向けられたその言葉は、しっかりと明確に、はっきりと鮮明に、失望とも哀れみともつかぬ、辛苦に染まった音をしていた。


「……またとは、果たして何の事やら」


「……」


 司教はそれっきり黙ってしまい、また目を遠くへやった。彼の発した問いかけは酔っ払いが記憶の底から掬いだした無意味な戯言であったのか、それともなんらかの意味があるものであったのか定かではないが、ムカームには確かに、思い当たる節があるのである。



 フェースの海域でチェーンが殺害された件については表向きフェース残党の仕業となっているが、察しのいい人間は誰もがムカームの手によるものであると直感していた。しかしそれを追求する者はおらず、それどころか、そうであってほしいと望む者すらいる事態であった。

 当時のホルストが持つ軍事力に対して挟める口がなかったというのも当然あるにはある。が、ドーガ市民の根底にはチェーンへの不信感が強く、深く芽生えており、誰もが追求する意義を見出せなかったのである。


 彼が死ぬ少し前、ホルストと同盟を結んだ事に対して軍関係者をはじめとした多くの人間が不満を持っていた。だが、それはあくまで小さな、ほんの少しの亀裂に過ぎず、まだチェーンを国主として認める向きが強く残っていた。しかし、そこに一つ、噂の種が撒かれ根を張ると、雲行きが怪しくなってくる。


「チェーンはホルストに与し、自分だけ甘い汁を吸おうとしているらしい」


 まことしやかに囁かれたそんな流言が人々の疑心を誘った。まさか、あのプライドの塊のような男が今更捨てた故国に舞い戻り、頭を下げるのだろうかと訝しむ意見もあったが、風潮としては真実であると捉える向きが強かった。

 チェーンとバグがホルストの圧政に不満を持ち、指導者となって大陸を脱した事は紛れもない事実である。それは変えようのない歴史の一部であり、ドーガ市民の誰もが知るところである。



 しかし彼らはチェーンの狡猾な一面を知っている。

 今更ホルストと手を組んだ事を知っている。


  

 民の心は大きく揺れ、徐々に信頼は失われていく。

 そして、そこにまた、一つの話が浮かぶ。


「ムカーム大将が、ホルストを裏切りこの地を治めるつもりらしい」


 それを皮切りに、俄かに盛り上がる反チェーン論。殊、軍人らはムカームを密かに支持するようになる。この頃すでに、新たな国を作り、新たな一歩を踏み出さんとその身を投じてきた者達には、冷静かつ計算高いチェーンの態度が野心ではなく保身と打算に塗れて見えていたのである。


 そうしてチェーンが殺された当日。ムカームは一部軍部の人間にこう尋ねた。


「もしも頭首が変わるとしたら、君たちはどうする」



 返答は揃っていた。


「命を懸けて従います」




 軍人達にとって若く知性に富み、勇気を持ったムカームは神格化されていた。それは彼らがかつて崇めていたチェーンと同じカリスマであった。

 彼らは古き指導者を捨て、新たな指導者を選んだのだ。それが、仕組まれ、誘導されたものであると知らずに……



「力を持つ者こそが、野望を抱く者こそが、欲する物を手に入れられる。それこそこの世のことわりです。その真理、お忘れなきよう」


 ムカームはそう言い残して今度こそ司教のもとを後にすると、真っ直ぐに進み自室へと入り、ペンと紙を取って今後の展望をしたため始めた。このままコニコに赴き、軍事行動も辞さない交渉に出る案はひとまず白紙に戻さねばならない。コニコを攻めれば、まず間違いなくリビリと対峙し交戦しなくてはならないからである。


 ムカームはワザッタの書状を全て鵜呑みにしたわけではなかったが、高い技術と多くの兵力を有している点については例え誇張があったとしても念頭に置いておかねばならなかった。市街にまで浸透する機械類に小型化精密化に成功した車。そして港に見られるという数々の戦艦。これらが事実であるとすれば、敵対する際に脅威となるは至極当然。しかし、逆に言えば丸ごと奪取できる可能性もある。事が上手く運べば、損害なくドーガを次のステージに押し上げられるとムカームは算段しているのであろう。

 試案を重ね、書いては消しを繰り返す事一時間。ついに立案書が一纏めに完成。一度ひとたび読み直すと、ムカームはデッキへと足早に上がり、待たせている副官に命令を下した。


「イーストマウスを全速力でドーガに向かわせ、オピウムを二箱ほど持ってこさせろ」


「は!」


 イーストマウスとはテールオブライ級の最新鋭高速艦である。そして、オピウムとは言わずもがな、阿片だ。ムカームが急ぎ麻薬を調達する理由は勿論、リビリかコニコか、或いは双方に売り抜け薬漬けにして、何から何まで一挙に掬おうとしているのであろう。


 ハイドジョイの甲板からは未だ水平線しか見えない。コニコはおろかリビリすら目には映らぬ海上の真っただ中であったが、ムカームの視線の先にはすでに、その二つの国を捉えているように思えた。彼が手を伸ばせば、すぐにでも掴めてしまうほど、近くにあるように。

 

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