どうだ明るくなったろう6

 ムカームはその光景からさも悲痛だと言わんばかりに目を背け、一間を置いて司教に駆け寄り言葉をかけるのだった。


「申し訳ございません司教様! 軍人としてお守りする責務がありながら、使命を果たせずこのような有様に……不覚の至り……いかにして償いましょうか……」


 はたから聞けば嘘八百の白々しいセリフであるが、茫然自失となっている司教においてはそれを看破する事ができるはずもなく、うわ言の様に途切れ途切れの声を発する事で何とか意識を保っているというような有様であった。


「私は……人を……」


 半ば錯乱状態となった司教から嗚咽が漏れると手にしたナイフが零れ落ちる。カチャンとやや湿った音を出したナイフは血に沈み、怪しく銀色を艶めかせた。


「どうしたら……どうしたらいいんだ……私は……ユピトリウスの教を説く者が、人を殺したなどと……」


 血の付いた手で顔を覆い、この世の終わりのように苦悶に伏す司教。そこにムカームは、そっと、悪魔の囁きを与える。


「……隠蔽しましょう」


「隠蔽……」


「そう。隠すのです。死体を。そして何事もなかったことにして、いつも通りの生活を送ればいいのです。なに、相手は奴隷。何を恐れる必要がありますか。そもそもこいつらは、我々のために働き死ぬのが定めです。どうしようが本来は自由。気に病むこともありますまい」


「しかし、彼とて人間ではないか。それを殺したとあっては、私は、それでは神のご意思に逆らうことに……」


 俺の意思など提示していないが、真っ当な倫理観をもっていれば良心の呵責に堪えられないだろう。しかし、だからこそ、人は自らの罪に対してどこまで背を向けられるものである。ムカームはそれを熟知しており、さらに言葉を続ける。


「では、この過ちを正直に公開し、信者から石を投げられる事を望みますか? 無論、先に命を狙ってきたのはこの奴隷。司教様が負い目に感じる事など何一つとしてございません。しかし、教義に反したとあれば、あの盲目的な信者たちは貴方を許さないでしょう。行われている行進を見てもそれは明らかです」


「それは……」


「司教様。私は、司教様にこんなところで躓いてほしくないのです。貴方は何千、何万の人間を救うべき使命があるではありませんか。それをこんな奴隷一人の命によって阻まれるなど、あってはなりません。司教様が本来救われるはずの人々をお思いください」


 一聴してみれば慮りのある慈悲の深い言葉に聞こえなくもないが思考としては最低の選民的な差別主義であり、ユピトリウスの教義に大きく反するというか、そもそも人道軽視も甚だしい、まったく別の潮流に乗る主義なわけであるが、しかし、これに偽りの義務感と正当性を植え付けることで相反する二つの軌道が等しく合致しているような錯覚が起こり、保身に走る人間にとってはまさしくすべてが正しく遵守すべき摂理であるように思えてしまうのである。本来司教は厳しくも懐深く慈愛の精神に溢れた人物であったのだが、それも地位と周囲の羨望によって作り出された人格の一部分でしかなく、いうなればレッテルにより生まれた社会的ペルソナであった。その仮面が血に汚れ、真の素顔を見せなければならないとすると(あるいは完全なる悪としての別のレッテルを貼られると思うと)恐怖の程は測りがたく、また。受け入れがたい悲劇となるのである。であれば、耳を傾ける。甘言、巧言の類に。そして、荊の道から目を背け、落ちるようにして悪逆へと進むのだ。


 もっともこの選択は司教自らに落ち度があり生じたものではない。一連の騒動は勿論当然ムカームの仕掛けたものである。彼が警備を払い、奴隷を誘導したのだ。牢に捕らえられていた奴隷に会い、司教を殺すようにと。

 ムカームは奴隷に、司教はホルストで全ての決定を下している人間だと虚偽を教え、また、自分にとっては彼が邪魔であり、消えたほうが共に利益があるとも含んでおいた。それ以外にも奴隷を信じさせる、あるいは従わせる様々な交渉があったがそれは割愛する。まぁ人質が取られていたくらいは書いておいてもいいだろう。ムカームは、彼が司教を殺さなければ捕らえているフェース人を惨たらしく殺すと明言していた。これだけでも奴隷が動くのに十分な理由となるであろう。



 奴隷も哀れではあるが、このような事件が起きなければ、司教は偉大な人物と敬愛され、本人も自分が周囲の望むような素晴らしい人間であると思いながら生きていけたに違いなく、まったく同情に値する不幸であるわけだが、世の中とは常々こうした理不尽により時代が進んでいくものである。なんと憂鬱な現実であろうか。




「……本当に、上手くいくのかね?」


「勿論です。私がなんとかします。二人で、よりよい世界を作りましょう司教様」


 司教は折れた。償いよりも我が身を優先させ、完全に悪の道へと進む腹を決めた。




「いや司教、失礼しました。いやはや、とんだ醜態を……」


 タイミング悪く戻ってきた管理官が部屋の有様を見て絶句。そして、ムカームは静かに、二人に聞こえるようにこう言った。


「先ほどの言葉、三人で、と、訂正させていただきます」


 司教は頷き、ムカームは少しばかり微笑して見せ、そして、管理官は二人の顔を見合わせながら開いた口をパクパクと動かし、掴めない現状を把握せんと頭を働かせるのであった。

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