ヤツベ文明・グラマ文明3
一方、チェーンからの伝令を聞いたバグは項垂れながらも逃走の用意を準備立てて動き始めていた。既に決定した事項を、いや、友の覚悟を今更になって覆す気などなかっただろうが、それでもやり切れぬ顔をして退避行動を取る。
「戦闘領域、離脱します」
「よし。そのまま前進……いや、後退かな」
バグはチェーンと言葉も交わさず分かれた。今生の離別ともなるかもしれなかったが、彼らはもはや個人の意思ではどうしようもできない責務と義務を背負っていた。
「生きろよ!」
腹の底からの、純粋な叫びであった。それはチェーンに届かぬかも知れなかったが、声を出さずにはいられなかった。
バグの船団は果てない海を渡った。海図のない未知の海域を彷徨い、右も左も、上も下も絶蒼の海原に浮かぶのであった。
戦域からの離脱により最初は安堵に満ちていたが、幾日が経ち、孤立無援という現実が船員の不安を徐々に高めていく。減っていく食料と水が正常を保つ目安だとしたら、その限度はもはや数日以内となっていた。魚や鳥を狩り、海水を蒸留する事により飢え渇きは凌げているが(船上での火器使用は控えるべきだが火炎放射器を装備しているのだから今更気にする事でもない)、あったものがなくなるというのは精神的に大きな負荷がかかるものである。ましてやどこかも分からない海の上となれば尚更で、船内では悲観的な声が多く交わされるのだった。
「いかんな」
バグはその状況を看過できないものとして対策を打とうとした。しかしパニック寸前の人間を鎮めるには容易の事ではない。まずは今後の憂いを晴らす、少なくとも晴れたように錯覚させてやらねばならず、個々人へのケアも必要となってくる。より具体的にいえば食料の安定確保とバグ自らが話を聞く事が解決に繋がる。
一計を案じた彼は、食料の類を一箇所に集中させ、空になった備蓄庫に即席の乾物や塩漬けや水を貯めるよう指示した。船の進行が多少遅れても構わないからまず目先の安全を確保せよと命じたのだが存外効果があり、食に対する不安は少なくなっていった。
船員の不安についてはこまめに声をかけ改善できる点はただちに是正していった。また、意識改革の一環として行った演説が実に見事なものであり、一人一人に志気が、活気が、覇気ざ溢れ、弱音ひ聞こえなくなっていった。
「かつての祖国ホルストは既に沈みゆく船であるが暴虐卑劣な賢士はそれを止める事もできない愚昧な連中である! 奴らは自分達だけが甘い汁を啜り! 他者には苦しみしか与えてこなかった! そのうえで奴らは言うのだ! ホルストから出るな! 共に心中しろと! こんな馬鹿な話があるか! 我々は人間だ! その人間が持つ自由意志をいったい誰が! どうして侵害できようか! 此度の航海は我ら人間の尊厳を守るための戦いである! 逃げ走る逃走ではない! 闘い争う闘争なのだ! 今は苦しいかも知れない! 辛いかもしれない! しかしそれは、人間として生きている証明である! 誰のためでもない自分達のために生まれる痛みである! 皆! 残念ながら私は新たな生活圏を保証する事ができない! しかし! 無事新たなる大地を踏みしめた時! 自由の幸福が心底から溢れ出ることを約束する! 戦おう! 生きよう! 自由のために! 明日のために! 人間よ! ここに幸あれ!」
バグのこの言葉は後に「自由闘争宣言」として歴史に残る事となる。これを聞いた者達は皆、薄暗く、果てしない虚無を追っていたような感覚からいきなり太陽が現れ道を指し示したといった感想を述べたそうだが、不思議な事に
、本当に演説の翌朝に未知なる大地を発見するのであった。
彼らが発見した幾つかの島が寄り添うようにして浮かぶ列島の一端であり、細長の地形に豊富な土壌と森林があった。上陸した彼らはまさに奇跡であると、心底から溢れ出る自由の幸福に歓喜の涙を流した。これが後に、フェースと呼ばれる国家の始まりであり、グラマ文明の起源となる。
バグを元首としたフェースの歴史が始まらんとする頃、時をほぼ同じくして、もう一つ、国の歴史が刻まれようとしていた。
その国に建国史の最初に刻まれる名はチェーン・フォンド・ホルスト。海上にて、ホルストの軍勢を相手に孤軍奮闘を続ける、あの男である。
「……形勢は有利か」
「はい。もはや勝ったも同然かと」
バグを逃した後、チェーンはたった五隻の船で敵船団を手玉に取り追い詰めていた。その天才的な知略は類を見ないものでり、ホルスト側は終始翻弄され、なす術もなく一隻二隻と轟沈していくのであった。
「……しくじったな」
残念といったように、チェーンは肩を落とした。
「はぁ?」
「つまらん。脆すぎる。相手の船がいくら漁船とはいえ防衛隊は武装していたし、数の面で不利な以上こちらが劣勢となるのはやむを得ぬと覚悟していたが、蓋を開けてみたらどうだ。圧勝ではないか。これなら、一個船隊でも連れてこいと、海の藻屑となったナグマ(防衛担当の賢士の名である)に言っておけばよかった」
「あの、冗談でも、それは……」
「冗談ではないさ。弱い敵を圧倒したところで何になる。恐ろしく、強大な相手こそ、戦い甲斐があるというものだろう?」
「そんなものでしょうか」
「そんなものさ。いや、ひょっとしたら俺は、マゾヒストの
「……」
「今のは冗談だ」
チェーンの言は全てが本音というわけでもなかったろうが、全てが嘘というわけでもなかっただろう。彼が敵を欲していたのは事実である。しかし、本来の目的を考えれば相手が弱い方が都合がよく、また、彼自身もそれを望んでいたはずである。チェーンの胸に生じているこの矛盾こそが彼の魅力であり、また危うい部分であるのだが、それに気付いていた盟友は既に遠方に身を寄せてしまっている。一歩踏み外せば覇道に落ちてしまう綱渡りのような精神の均衡を彼が維持できるかは後の歴史が証明するであろう。
さて、そのチェーンが退屈な冗談を述べた戦場では、少々異変が生じていた。
「敵が一隻接近してきます。旋回しながら距離を詰めてくる模様」
「なんだ。少しは骨のある奴がいたか」
「いえ……どうやら、降伏するようです」
「なんだと?」
「更に接近してきますが、いかがなさいますか?」
「……連絡艇を出して指揮している人間を連れてこい」
「了解しました」
降伏してきたのはカリムの指揮する船であり、程なくして、指揮官たるカリムがチェーンの船に足を踏み入れた。
「貴様が指揮官か」
「そうだ。我々に争う気はない。随伴の許しを願いたい」
カリムとチェーンの邂逅によりこれから先にある歴史の進む道が定まるのだが、彼と彼女にそれを知る術はない。ただ、運命に手繰り寄せられるようにして、両名は顔を合わせるのであった。
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