第11話 生涯賃金と言う名の誘惑

 人は何故働くのか。何故毎朝重い瞼をこじ開け、人混みの中を掻き分け会社に向かうのか。


 何故理不尽なストレスを抱え、それを耐え忍んで仕事を続けなければならないのか。賃金労働者の全てが抱え感じる疑問。


 答えは労働の対価。賃金を得て生活をする為だ。一握りの富裕層以外、この運命からは決して逃れられない。


 否。社会がそんなシステムになっているのだ。このシステムから一度落ちれば、生活はたちまち困窮し、今日食べる物にも事欠く有様になる。


 賃金労働者達は妄想する。もし億単位の金を手に入れる事が出来たら。毎日の労働から即解放される。


 そして残りの人生の時間を自分の好きな様に使える。だから人々は宝くじ売り場に足を運び、一発逆転の可能性に賭けるのだ。


 曙駿太も宝くじを買い続けている。だが、今だに賃金労働者も続けている。そう。生半可な運では不可能なのだ。人生の時間と言う名の当たりクジを引くには。


「こ、この通帳にある二億を僕達にくれる!

?き、北場君。君って一体何者なの!?」


 昼下がりのファミリーレストランの中で、万屋悟はズレた眼鏡を指で直しながら声を荒げた。


 その悟の声に、他のテーブルを片付けていた女性の店員がチラリと駿太達の席を見た。


「万屋さん。落ち着いて下さい。声が大きいわ」


 女子大生の坂間三輪に嗜められ、サラリーマンの万屋悟は咄嗟に自分の口を塞いだ。


「······でも。万屋さんの疑問は最もだわ。北場君。何故高校生の貴方がこんな大金を?」


 綺麗に切り揃えられた爪を覗かせながら、坂間三輪は両手で通帳を持ちながら質問する


「僕の親は資産家なんです。幼少の頃より、僕は大金を自由に扱える立場にいるんです。

親の教育の一環です。自分で資金をいかに増やして行くかという」


 北場光の悠然とした返答に、賃金労働者の二人と女子大生は絶句した。高校生に億単位の金を自由に使わせる。


 光の親は、桁違いの金持ちだと駿太は思い知らされた。


「ほ、本当にこの二億を僕達にくれるの?り

、理由は?一体何の為に?」


 万屋悟は視線を通帳、北場光と忙しく往復させ、光の真意を測ろうとした。


「はい。皆さんに僕がこれからやろうとしている事に協力して頂きたいんです。この通帳の金額があれば、仕事を辞められます。その対価として僕に協力して頂きたいんです」


 北場光は穏やかに。だが真剣な面持ちで駿太達を見回した。


「こんな大金を使ってまで。どんな事に協力しろって言うの?」


 まだ学生の坂間三輪には、労働から解放される手段がある実感など湧いていない。三輪の冷静な口調に、駿太はそんな事を考えていた。


 光は自分が考案した「断罪の眼鏡」の事を説明し始めた。そしてその断罪の眼鏡を使い、四人で生きる価値の無いゴミを駆逐する


 そうすれば、この世は真面目に生きる人々とってより良い世界になると光は断言した。


「これは世を正す大掃除です。誰にも出来る事ではありません。力を持つ選ばれた僕達にしか出来ない事です。そしてそれは、生涯を捧げるに値する行為です」


 光は理路整然と言い切った。光の自信に溢れた表情と言葉に、悟と三輪は圧倒されている様に駿太には見えた。


「で、でも。その眼鏡を散華さんから貰うには、曙さんが先ず力を使わないと駄目なんだろう?」


 万屋悟が駿太を見ながらそう口にする。すると坂間三輪も無言で駿太を見つめる。駿太は突然何かに追い詰められた気分に陥った。


「曙駿太さん。今ここで決断して下さい。力を行使し、僕達に協力するか。それとも、明日からも仕事を続けますか?」


 北場光は厳しい口調で駿太に選択を求める

。光は自分が嫌々仕事をしている事を探偵でも使って調べたのか。


 駿太はそんな馬鹿な想像をしてしまった。

この先、二十年以上続く仕事を明日から辞められる。


 もう早朝から無理矢理起床しなくても良いのだ。勝手な客の無理難題に付き合う必要も

、時間に追われる事も無くなる。


 それは駿太にとって、余りにも大き過ぎる誘惑だった。だが、その代償に駿太は殺人行為を犯さなくてはならなかった。


 幾ら証拠が一切残らず、罪に問われないとしても。果たしてそんな事が許されるのか。

駿太はこれ迄の人生で、経験した事の無い二者択一を迫られていた。


 その時、駿太の中で黒く濁った感情が沸き起こって来た。一体自分は何を迷っているのかと。


 生きる為に課せられた強制に近い労働から解放され、世の悪人達を淘汰して行く。これ程世の為になり、意義のある行為が他に在るのかと。


 この危険な考えは、均衡を保っていた駿太の善悪の基準を崩し始めた。一旦亀裂が生じた理性は、雪崩のように崩壊して行く。


 駿太は無意識の中で、これ迄の強く殺意を覚えた相手を思い出していた。


『······必要なのは強い殺意。そして想像力』


 散華に言われた言葉を駿太は反芻していた

。その時、ファミリーレストランの席に座っていた駿太の視界が一変した。


 駿太の目に広がったのは、あの一面白の世界だった。

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