第3話 一線
「······現実世界でも死ぬ?一体どう言う事だよ?これは、俺の頭の中の世界の筈だろう?
」
駿太は振り上げた木刀を持ち上げたまま、黒い和服の女を問い質した。若く美しい女は紅い唇にクッキーを挟んだまま、器用に喋りながら返答する。
「意外と察しが悪いわね駿太君。貴方の目の前に座る彼。どう考えても貴方と同じく、現実世界からここに連れて来られたって様子じゃない。気付かないかしら?」
女は言い終えるとクッキーを割り口の中に送り込む。駿太は視線を下に移し、かつて自分を傷付けた相手を見る。
その相手。勝田は相変わらず怯えた表情だ
った。駿太は先刻の勝田の台詞を思い返していた。
勝田は確かに言った。一体ここは何処なのかと。それは、この白い世界に迷い込んだ自分と同じ疑問だった。
そして勝田の服装にも駿太は目を向ける。勝田は紺色の作業着を着ていた。勝田も自分と同様に、朝の出勤時にこの白い世界に連れて来られたのか。駿太は混乱する頭の中を整理し考え始める。
女の言う通り、勝田は自分と同じく現実世界からここに強制送還された。勝田の言動を考えると、そう考えるのが自然と思われた。
それが本当なら。駿太はこれから殺人行為を犯す所だった。
「······冗談は止めてくれ。想像の世界だから好き放題出来るんだ。本当に死ぬなら、そんな事出来る筈がないだろう!」
駿太は右手に握った木刀を放り投げた。木刀は乾いた音を響かせ白い床に転がる。この現実味の無い世界でも音は響く。
この緊迫した状況下でそんな事を気にしてどうするのか。駿太はそう自分に苛立ちを感じていた。
「大丈夫よ駿太君。その椅子に座っている彼を殺っても、貴方は罪に問われない。だって証拠なんて何も残らないんですもの。この国に行方不明者が年間何万人いると思う?その統計の数字が一つ増えるだけよ」
女は大きな瞳を細め、指にクッキーを挟んだまま笑う。
『······罪に問われない?俺の行為が現実世界では誰にも知られないって事か?どう言う事だ。それが、この白い世界のシステムか何かなのか?』
駿太は黙したまま、頭の中では必死にこの状況を考えていた。
「駿太君の想像の世界に、現実に存在する人間がいる。それだけで信じる事が出来ないかしら?私の言う事が本当だって」
微笑みながら話し続ける女の言葉を駿太は反芻する。確かにこの現実離れした世界は、女の言葉を信じる理由には十分かもしれなかった。
だが、勝田をなぶり殺しにして元の世界に戻った時、自分が罪に問われない確実な確証を駿太は持てなかった。
「······君は何故俺に殺人行為を勧めるんだ?そんな事をして、君に一体何の得があるんだよ?」
駿太は答えの出ない不安と焦燥を目の前の謎の女に向けた。女は気を悪くした様子も見せず、穏やかに笑う。
「それが私の仕事だからよ。駿太君。貴方の様に真面目にコツコツと生きている真人間の為に役立ちたいの。想像だけじゃなく、現実で恨みを晴らす。そうすれば、貴方の心は晴れやかになり、これから歩む人生も明るくなると思わない?」
駿太は女の言葉に違和感を感じていた。自分の役に立ちたいと言いながら、それが仕事だと言う。
更に殺人行為を遂げて、それからの日々が素晴らしい物になると言い切った。そして、あの「伝達事項」という言葉。
駿太は混乱する頭の中を必死に整理する。そしてある一つの考えに達した。
「······君は、誰かに命令されてこんな事をしているのか?」
駿太は確信があってこの質問を投げかけた訳では無かった。だが、質問された相手の表情は一変した。
穏やかに微笑んでいた女は、人形の様に無表情になった。
「······どうしてそう思うの?駿太君」
女は紅い唇についた小麦粉を舐める事もせず、無機質な大きな瞳を駿太に向ける。
「君は俺に殺人行為をさせる事を仕事だと言った。君が自主的にこれをやっているなら、伝達事項なんて言葉は使わない。それは、必ず俺に告知義務があると誰かに命令されていたからじゃないのか?」
そしてこの女は、誰かに殺人行為をさせる事は初めてでは無い。駿太はそう考えていた
。女は無表情のまま小さいため息をついた。
「君は一体何者だ?誰にこんな事を命令されているんだ?」
精神的疲労から乾いた口を重そうに開き、駿太は再度黒い和服の女に質問する。すると
、美しい女は再び笑みを浮かべる。
「ふふふ。私自身の事を話すなんていつ振りかしら?どうしよう。上手く話せるかな?」
女は左手を頬に当て、戸惑っているような素振りを見せた。
「駿太君。貴方は私を化物の様に思っているかもしれない。けど、私も貴方と同じ平凡な人間だったのよ?」
まるでそれが、自分が一番美しく見える角度と言わんばかりに女は首を傾げながら語り始めた。
女は二十二歳の時に自殺をした。原因は精神を病んでいたからだ。太りやすいと言う生まれつきの体質を疎み、度を超えたダイエットを繰り返した。
鏡に映る痩せ細った自分の身体を見て、女は深く満足した。だが、その女に向けられた世間の目は冷たく、冷酷だった。
「私気づいたの。ううん。ダイエットに夢中で忘れていたわ。自分の容姿が醜い事にね」
女はそう言いながら、指に挟んでいたクッキーを袋に戻した。
健康を害してまでやり遂げたダイエットの到達点は、女にとって余りにも無慈悲な物をだった。
生まれ持った容姿を変える術など無く、女はこの生きる世界に絶望し、正気を保て無くなった。
「今思えば、整形手術って方法もあったのだけどね。当時はそんな事を考えもしなかったの」
女の話を聞きながら、駿太は幾つも疑問が湧いて来た。今自分の目の前に立つ女は、非の打ち所の無い造形美を誇っているからだ。
「ふふ。駿太君は訝しく思ってるわよね。今の私の容姿のどこが劣っているのかって。私のこの身体は、自殺した後に手に入れた物なの」
女はそう言うと、自分の長い黒髪を愛おしそうに手で撫でた。
「······死んだ後に手に入れた?」
「そうよ駿太君。私は自ら命を絶ち、この世から消える筈だった。その時、今の上司にある取引を持ちかけられたの。仕事を手伝うなら、望みの身体を与えるとね」
女の言葉の端々に、駿太は聞き逃せない言葉を認識した。それは、この白い世界に置いて無縁の単語のように聞こえたからだ。
上司。仕事。その重苦しい単語は、忙しなく過ぎる駿太の生きる現実世界で自分を縛る鎖の筈だった。
「私は躊躇せずその取引を受けたわ。そして手に入れたの。この完璧な身体を!」
突然、女は声を荒げた。駿太はその嬌声に、金縛りにあったように固まった。
「美しい顔!長い手足!豊かな胸!幾ら食べても太らない体質!でも。でもね。一番の私のお気に入りはこの黒い髪なの!見て駿太君
。この艷やかで張りのある黒髪を!私が醜い容姿で生きていた頃、自分の髪だけは綺麗だと自信があったの。でも無茶なダイエットが原因で髪はボロボロ。今はその時より美しい髪を手に入れたわ!!」
大きな瞳を大きく見開き、まくし立てる様に喋る女に、駿太はただ圧倒された。平凡な容姿であり、それを粛々と受け入れていた駿太は、女の見た目に対する異常な執念が理解出来なかった。
「······私はこの身体を与えてくれた代償に、上司から命じられた仕事に励んだわ。その仕事とは、今私がしている事よ」
再び女は聞き流せない重要な事を口にした
。駿太は必死に頭の中を整理し、数々の疑問の中から最優先事項を選択していた。
「日々の日常の中で、人間は息が詰まる様な精神状態で生きているわ。それを解消する為に、人は無意識に。いえ確信犯的と言った方がいいかしら?自分の頭の中で無限の想像力を働かせているわ」
女の言葉の内容は、まるで駿太の普段の空想を言い当てているかの様だった。
「······そしてその想像を現実の物にする。それが私の仕事よ駿太君」
熱狂的に自分の容姿を演説していた女が、いつの間にか再び妖しい笑みを駿太に見せる
。
「必要なのは強い殺意。そして想像力。それだけよ」
女の抑揚の欠けた台詞に、駿太は背筋に冷たい汗が流れている事に気づきもしなかった
。
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