第2話 夜をほどいて



 なおね、大きくなったら、さとちゃんのお嫁さんになる!

 なおちゃんは小さい頃、よくそう言って周りを困らせていた。

 私でさえどう反応していいか分からないでいる中、ゆきくんだけが冷静に、奈央香なおか、と彼女に話しかける。


「女同士って結婚できないんだぞ、だから、お前と里は無理」


 遠慮なく現実を突きつけるゆきくんをじいっと見つめてから、なおちゃんはにっこり笑って、


「じゃあ、結婚なんてできなくてもいいや。さとちゃんと、ずうっと一緒にいられるだけでいい」


 本当にそれだけでいいのなら、どれだけ幸せだろう。

 私も、となおちゃんに笑い返す。

 これからの人生で、大切な何かを失ったとしても、この純真で無垢な笑顔だけは守り抜きたい。その時、無性にそう思った。

 なおちゃんがいずれこのことを忘れてしまったとしても、私だけはずっと覚えているだろう。二人で約束したことも、全部。





 当時はまだ小学生だったけれど、もうその頃には、家に帰りたくなかった。

 帰れば、母に些細なことで責め立てられ、父が帰ってくれば、酒を飲み母を殴る。

 私のことを、両親はよく難しい子だと言った。自覚はなかったけれど、二人がそう言うのだからきっとそうだったのだろう。

 育児に疲れきった、と二人は周りに相談していた。根本的な理由は私を育てること以外にもあった気がしたけれど、私から何か言えるわけもなかった。

 母はひどく落ち込んだ時、自傷行為に走るようになってしまった。それでも、ためらったような傷を手首につける程度で、命の危険というような目立った行為ではなかった。と、私は思っていた。あの時までは。

 ある日の休日、両親は疲れきってしまった、たまにはゆっくりしたいと言って、私をゆきくんの家に預け、二人きりで自宅で過ごした。

 夜の七時に迎えに行くと言っていたのに、七時半を過ぎても二人は来なかった。私がゆきくんのお母さんを連れて自分から家に戻ると、リビングにも、寝室にも二人はいない。

 どこー? と声をかけながら浴室へ行った時の、血まみれの惨状を、私はよく覚えている。二人は浴槽の中で、抱き合うようにして眠っていた。

 すぐに救急車を呼んで、病院につくと、まだ息があることが分かった。命は助かったけれど、二人は自分の身体に傷をつけていただけでなく、薬も大量に飲んでいた。

 意識を取り戻しても、朦朧としていて、話もできない。

 結局、自殺未遂ということで怪我の治療が済んだ後、精神病院に入院することになった。また死のうとする可能性があったために、閉鎖病棟への入院となった。

 一人ぼっちになってしまった私に、親戚たちは見向きもしなかった。色々と事情があったのだろうが、いとこたちが私をひどい言葉で罵っても、大人たちは笑って見ていただけだった。

 とりあえず、多少のお金だけ振りこむから一人で今までどおり暮らしてくれる? 施設に入るよりマシでしょ? そう言われて、当時小学生だった私に、彼らに向かって何が言えたというのか。

 何年経っても二人は退院してくる様子もなく、私は家では一人で過ごした。

 でも、一人ぼっちではなかった。なおちゃんとゆきくんが、いてくれた。

 朝ごはんは毎日の分、パンやおにぎりを用意してくれた。お弁当はなおちゃんとゆきくんのお母さんが順番に作ってくれて、夜ご飯はどちらかの家で食べるか、残り物を届けてくれる。

 彼らにも、その家族にも、感謝しきりだった。特に大きな問題もなく、私がここまで大きくなれたのは、支えてくれたみんなのおかげだ。

 中学三年生になっても、私たちの関係はそれまでとあまり変わらなかった。唯一変わったことと言えば、なおちゃんが、ゆきくんを意識するようになったこと。

 幸宏のやつ、本当にしょうもない。そう言うなおちゃんの顔はなんだか嬉しそうで、ああ、そういうことかと合点がいく。

 彼女は覚えていないのだろうか。私とずっと一緒にいたいと言ったことを。覚えてるはずがないか、もう、十年近くも前のことだ。

 中学もあと残り数ヶ月ほどとなっていたその日、家に帰ると、当たり前だが自分以外誰もいなかった。一人きりだ、と思い知らされる。

 なおちゃんは、ゆきくんが普通の家で育てられた子供だから、だから好きになったのだろうか。私は異質な家の子だから、彼女は約束も全部忘れてしまったのだろうか。

 久しぶりに、涙があふれた。

 ずっと、私といられればそれでいい。笑って言った奈緒ちゃんの顔が、忘れられない。

 嬉しかった。好きだと思った。その時は、まだこんな気持ちはなかったけれど、今なら分かる。私は、なおちゃんのことが好きなんだ。

 欲しい。彼女のことが。どうしようもなく、手に入れたい。私だけのものにして、私以外誰も触れられないよう、閉じ込めておきたい。

 大切なゆきくんにも、なおちゃんだけはあげない。許さない、そんなこと。

 噛み締めた唇が痛んだ。今まで、どうだってよかった性別という問題が、彼女を手に入れるためには大きな壁となって立ちはだかる。

 とりあえず、肩下三十センチはあった長い髪を、自分で短くカットしてみる。けれど、どこからどう見ても私は髪が短い女の子で、こういうのってあんまり関係ないんだ、とがっかりした。

 次は、昔からできるだけ女の子らしく揃えていた服装をどうにかしようとクローゼットの中を覗き込むが、このただでさえ閑散としていて数少ない服を全て捨てて、新しい服を買おうにも、そんなものを買うお金はどこにもない。

 行き詰まってしまった。私が元から彼女好みの男の子だったら、どれだけよかったことだろう。

 私は、私以外にはなれない。もう一度泣きながら考えたけれど、いい考えは思い浮かばなかった。

 こんなにも彼女を欲しているのに、私は気持ちを伝えることさえできないのか。

 一晩中泣いて、泣き疲れて朝方に眠った。こんな顔でなおちゃんたちと会いたくないな、と思いながら。

 朝の六時半、いつもどおりの時間に目が覚めて鏡を見る。真っ赤にはれている目元。これはどうしたのかと絶対に聞かれるだろう。

 でも、学校に行かないわけにはいかない。制服に着替える前に氷で目を冷やした。用意してもらっているおにぎりを一つ食べて、家を出る。 

 不安だったが、特に学校では何も起こらなかった。みんな気を使ってくれているのか、目がはれている理由を尋ねてくる者もいない。

 しかし、家に帰って数時間後、もう空が真っ暗になった頃、なおちゃんが訪ねてきた。私が一人きりの寂しさに再び泣きそうになっているところでやってきた彼女に驚いて、慌てて中に入るよう促すと、彼女は心配そうな目をして首を傾げた。


「里ちゃん、何かあった? なんだか、悲しそうだよ」


 今すぐ彼女に縋りつきそうになってしまった自分を抑え、「ないよ、何も」と笑顔をつくる。

 なおちゃんは、私の手を取る。そしてぎゅうっと握りしめて、強い意志を感じさせる表情で、


「ほんとに、嘘上手くなったよね。でも、本当に誰かに助けてもらいたい時は、私にだけは言ってくれなきゃ」


 優しく笑って、なおちゃんは続ける。


「里ちゃんのこと、大事なの。本当は、一人になんかしたくない。里ちゃんは気を使いすぎだよ。私にできることなら、なんでもする」


 体中に電流が走ったようだった。

 私の気持ちをもし言ってしまったら、なおちゃんは拒否するだろう。気持ち悪いと言うだろう。そんなことは、分かりきっていたことだった。

 でも、止められなかった。もう爆発してしまいそうにふくれ上がった感情を彼女に押し付けることしか、私にはできなかった。

 目を逸らして、「なんでも?」と聞くと、なおちゃんは深く頷いた。

 私は唇を強く噛み締める。


「私が、なおちゃんのことが好きだから、恋人になってって言っても?」


 なおちゃんは、当たり前だが、すごく驚いていた。目を丸くして私を見ている彼女が、これから何を言ってくるか。全て、理解していたつもりだった。でも、怖くて怖くて仕方がなかった。

 他の人にどう言われても、どう見られても構わない。でも、なおちゃんにだけは。

 彼女が私から逃げやすいように、背を向ける。もう、早くいなくなってくれ。なおちゃんがいなくなったら、私は今度こそ立ち直れなくなるくらい泣くだろう。それでいい。

 私なんて。消えられるものなら、今すぐ消えてしまいたい。

 もう既に涙がこぼれ落ちそうになっている私の身体を、何かが優しく包んだ。びっくりして振り向くと、なおちゃんが背中のほうから、私を抱きしめていた。


「……うん」


 うん? 私は思わず同じ言葉を、心の中で呟いた。


「なってもいいよ、恋人に」


 大きく見開かれた目から、涙があふれた。

 なおちゃん、私がかわいそうだからって、そんなこと言ってくれなくていい。恋人になんて、なりたいわけない。なおちゃんが私のことを好きだなんてありえない。だって、なおちゃんはゆきくんのこと。


「里ちゃん、好き」


 どくん、と心臓が鳴った。

 もう、どうでもよかった。彼女の言葉が嘘であっても、この行動をとった理由が、私への哀れみからでも。

 今なら、なおちゃんを手に入れられる。私だけのものにできる。

 そう思うと、止まらなかった。


「なおちゃん」


 私は身体ごと振り向いて、彼女の胸の中で泣いた。こんなに、不確かなのにあたたかい気持ちになったのは、初めてのことだった。





「ゆきくんにはなんて言う?」


 私が聞くと、なおちゃんはどこか追い詰められたような暗い表情で、


「幸宏には、まだ言わないでおこうよ。あいつ、今大変そうだし」


 ゆきくんは、今サッカー部の部長をしていて、卒業する前の引き継ぎ作業で毎日大変そうにしている。

 私も、そうだね、と頷いて、


「なおちゃん」


 彼女が後で後悔したりする前に、私に夢中にさせればいい。

 彼女が、あの時の約束を覚えていなくても、本当は私のことなんか好きじゃなくても、どうでもいい。私が初めて自ら望んで手に入れた人、誰にも渡さない。


「大好き」


 そう言って、なおちゃんの頬に口づける。今はこれだけでもいい。でも、いずれ私たちは求め合うだろう。

 私以外、誰も見えないようにしてあげる。




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