第32話 ぶっ倒れるまで

「はー、負けちまったな……」


 なのに、この清々しさはなんだ。

 残り少ない体力でどうにか仰向けになって見上げた空は、朱色が混じり始めているがきれいに晴れ渡っていて、いまの自分の心とシンクロして、なんだか笑えてきた。

 ひひ、と変な笑い声が出たところへ、ぬっとクレアが顔をのぞかせてくる。


「はいお疲れさま。立ってお客様に挨拶して」


 はい、と返してハンドスプリングで勢いよく立ち上がり、カーテンコールを受ける舞台俳優のように鮮やかにお辞儀をして静かにリングから去った。


『はーい。それでは勝利者インタビューです』


 そんな声を背中に聞きながら、ライカはリーゲルトが待つテントへ戻っていった。


     *     *     *


「負けたのか、ライカ」


 テントでは麦茶が注がれたコップを両手で持ったリーゲルトが、無念そうにライカを出迎えてくれた。


「勝負事だからな。勝ったり負けたりは当たり前だよ」


 コップを受け取ってからリーゲルトの頭をくしゃくしゃにかき混ぜ、パイプ椅子にどかりと座る。

 ライカからすれば、ディルマュラに負けたこと自体はどうでもいいことだ。出会った頃には歯牙にもかけていなかった相手と、こうして全力で闘って負けた。むしろ嬉しいぐらいだ。


「だからありがとうな。そうやって悔しがってくれて」


 心を見透かされたのが恥ずかしかったのか、目をそらし、ごにょごにょとなにかしらつぶやいて、テントの片隅に逃げてしまった。


 ──まあいいか。そのうちわかるだろ。


 視線で追うこともせずにライカは次の試合に思いを馳せる。


「あー、あともう一回か……」


 いままでの四試合は、うん、楽しかった。


 みんなそれぞれに強く、苦戦したし、アドバイスのような小言ももらった。

 けど、次は。


 ──避妊さえしてくれればあたしは応援するから。


「そういうことじゃねぇんだよな……」


 あいつとの子供が欲しいとか、あいつと添い遂げたいとか、そういうことがしたいわけじゃない。こういうとき、性欲がふつうにあればもっとこう、直線的に動けるのだろうか。


「あいつと、どうなりたいか、か……」


 どれだけ考えても、答えなんか出るはずがなかった。

 でも、と思う。

 本当に自分は、あいつのことが好きなのだろうかと。

 本当に好きなら、体質のことなんか関係なく、行動や思考の全てが思い人が中心になるものではないのか。

 けれど去年あいつに好きだと言ってからいまに至るまで、自分の心を占めているのは強くなって一刻も早くあの人の隣に行くこと。

 分からなくなってきた。

 

「ライカ・アムトロン修練生、時間です。試合場へ向かってください」


 ぐるぐる回る思考の渦を止めたのは、テント越しのスタッフの呼び声だった。


「あ、はい。いま行きます」


 はっきりしない頭で立ち上がり、おずおずとこちらを見ていたリーゲルトに「だいじょうぶだよ」と声をかけて出入り口を潜った。

 外はもう、かなり陽が傾いていた。空の青はほぼなくなり、穏やかな夕焼けに包まれていた。

 星が出るまでに終わればいいな、とぼんやり思った。


     *     *     *


 気がつけば、一番星が輝いていた。


「きれいだな。やっぱり」


 両腰に手を当てて、一番星を眺めながらライカはつぶやく。

 ライカたちが暮らす惑星カイセスもまた、星系の三番目に位置している。一番星に当たる惑星はプリマと名付けられ、親しまれている。

 まだ幼い頃、仕事を終えたイルミナと帰宅するときに見つけてははしゃいでいた記憶がある。


「そっか。まだよく知らないんだ。お前のこと」


 知り合って一年半。告白してから半年。

 そんな相手と将来どうなりたいかなんて、イメージできるほどライカの人間関係は複雑ではない。

 ライカがはっきりと知人だと言えるのは、オリヴィアたち五人とイルミナとクレアだけ。

 十七年生きてきて、それだけだ。

 

「なあミューナ。あたしは、お前のことが好きだ。それは間違いない」


 唐突に、しかしライカにしては珍しく視線をしっかりと合わせて言うものだから、ミューナは少し戸惑う。


「う、うん。わたしも、好き」

「ん。で、だ。あたしはお前のことをよく知らない。お前は最初に出会った時からずっとずっと見ててくれたんだろうけど、あたしは目的を達成するために、周りを見てる余裕なんかなかったんだ」


 うん、とゆっくりと頷くミューナ。


「だから、これからは、お前のことをもっと知っていきたい。どうしたらお前が喜ぶのかもだって、あたしは知らないんだ」

「い、いい。そんなの、しなくても」

「いや、やるぞ。もう決めたからな」


 ずっと悩んでいたことにある程度の答えが出たことでライカは感情が昂ぶり、逆にミューナは唐突なライカの変貌に戸惑い、ついには涙さえこぼしていた。


「んだよ。泣くなよもう」

「なんで、そんなこと、言うの」


 ぐすぐすと両掌であふれ出る涙をぬぐいながら、ミューナはライカを見つめる。


「いやだってお前、好きだって言ってからずっとなにもしてこなかったからよ。でもなにしていいか分からなかったからずっと逃げ回ってた。悪い。謝る」

「そういうことじゃ、ないっ」

「じゃあなんだよ」

「こんなところで、言わなくて、いいってこと!」


 あ、と間の抜けた音が漏れる。

 ミューナからすれば、待ちに待ったライカとの試合だ。昨日は楽しみが勝ちすぎて中々寝付けなかったし、きょうだってテントの隙間から全部の試合を固唾を呑んで見ていた。

 クレアからの開始の合図を前に、いつもと少し雰囲気の違うライカがゆっくりと話し始めたので耳を傾けていたらこの有様だ。


「なんで! なんでいつもそうなの!」

「わ、悪い。いましか言うチャンスないって思って、それで」

「もういい! はやく試合やるの!」


 その白磁のような頬を首回りを真っ赤に染めながらミューナは叫び、構える。


「お、あ、そう、だな」


 戸惑いつつもライカも構え、クレアに視線を送る。

 やれやれ、とため息を吐きながら、いつの間にか実況席に座っていたクレアはマイクを握り、


『んじゃ、あたしからも条件』


 にひひ、と上がった口角にライカは猛烈にいやな予感がした。


『これはミューナの保護者としての意見なんだけど、ライカ、この試合に勝てなかったら、ミューナのことは諦めてね』


 一瞬頷きかけてなにを言われたのかをギリギリで咀嚼し終えたライカは、目を見開いて叫ぶ。


「は?! なんでそうなるんですか!」

『だって、ミューナより弱い子をミューナの恋人と認めることはできないわ』


 ぐ、と歯噛みするライカにクレアは追い打ちをかける。


『あんたもいっぱしの拳士なら、拳で自分の思いをぶつけてみなさい。長い時間かけてふたりきりで一緒にいるより、よっぽど深く理解できるはずよ』


 拳で語る。

 言うには易いが、ライカはそれを自分の意識下でやれた覚えがない。

 何度か右手を握って開いて。


「ミューナと深くわかり合えるっていうなら、やります。合図、お願いします」

『ふふん、いい顔するようになったじゃない』


 マイクを懐にしまい、ふわりと、そよ風のようにリングに降り立つ。


「おめでと、やっと言えたじゃない」


 まさか祝福されるとは思っていなかった。


「う、うす」

「ミューナも。本当に好きなら絶対に離すんじゃないわよ」

「うん。だいじょぶ」


 力こぶを作って見せるのが妙にかわいくて。クレアは苦笑してしまう。


「まあいいわ。あたしは、祝福するから」


 意味深に聞こえたクレアの真意を問い質すよりもはやく、彼女はマイクを取り出して右手を高く掲げていた。

 これを見ると反射的にふたりは腰を落として構えることしかできなくなる。


『それではみなさまお待たせしました! ライカ・アムトロン修練生への懲罰兼ご褒美の五連戦最終試合です! 始め!』


 ばっと振り下ろされた右手に、会場は歓声に包まれ、ふたりは同時に動き出す。

 これで最後だ。

 ぶっ倒れるまでやろう。

 ライカはそう決めた。

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