第90話・過去の亡霊
部屋の隅で膝を抱えている京平。
俺の質問に答えるまで、部屋は静寂のままだった。
「……その質問に答える前に、聞きたい事がある」
「何だ」
「お前は今、誰と組んでるんだ?」
ごもっともな問いだった。
俺の行動は仲間よりも他所の捕手を選んだって事であり、ましてやそれを隠してやっているんだから、最早それは裏切りだ。
「俺が組んでるのは、森本京平だよ」
「だったら何で尾上さんと?桃崎さんと?どうしてそのアドバイスまで受けるんだ。俺の言う事がそんなに信用ならねぇか?」
「そんな事ないさ。」
京平のおかげで成長できた。その気持ちは本物だ。
「ごめんな。不安にさせて。けどよ……」
「……」
「俺はお前のピッチングマシンになりたいわけじゃねぇんだ。捕手の望むがままに投げる機械じゃない。生きている一人の投手なんだ」
「……!」
「お前の期待通りに成長すれば、きっと全国にも届くようになるんだろう。でも、それは全て、森本京平が組む投手に求めた能力だ。それなら、俺じゃない誰かでも良い筈だろ。それじゃ駄目なんだよ。それじゃあ、俺はいつまでも森本京平と対等になれない、格下の、誰かの操り人形のままだ」
京平の顔はどんどん強張っていく。
それでも俺は言葉を止めない。
「もう懲り懲りだ。そんな道を選ぶくらいなら、俺は何度だってお前の期待を裏切る。そうまでしてでも、菅原迅一ただ一人として、森本京平の前に立ちたい。それすら許されないなら、バッテリー解消したって良い。捕手なら濱さんも山岸さんもいるからな」
正直、京平レベルの捕手と組める機会がある奴なんて、同世代にそう何人もいない。
ましてやその機会を手放す様な輩なんか、五本指に収まる程度だろう。
でも、その捕手の中にある芯が、自分と合わない物であるなら、俺はソイツと離れる。
捕手にも芯があるように、投手にもまた、譲れない芯があるのだ。
有象無象ではない、一人の投手としてマウンドで投げたいという芯、
「……スゥ、フンッ!!!」
パァァァンッ!!!
「うおっ?」
「京平!?」
「うわぁ、折角の美形を!」
「絶対痛いって……!」
突如自らの顔を引っ叩いた京平。
頬を真っ赤にして、キュッと顔をしかめる。
「……痛ぇ」
「そりゃそうだろ……」
「顔じゃねぇよ。心だよ。お前の話を聞いて、痛くなった」
「どうした、急にポエマーデビューしちまったのか?」
「茶化すなよ。俺は、自分の目の前にいる投手を見てた。でも、その中身、菅原迅一そのものを見れていなかった。そんな自分を棚に上げて、勝手に嫉妬して、へそ曲げて。情けねぇよな」
そんな事はない、と言おうとするより早く。
「すまん」
京平は頭を下げた。
「このバッテリーを裏切っていたのは、俺の方だった。迅一の芯を無視して、自分の芯を優先してしまった。そりゃ信頼されないよな」
「そこまでは言ってないけど……」
「いや、俺は反省しなきゃならねぇ。重く受け止めなきゃならねぇ。俺はいつの間にか、菅原迅一じゃなくて、俺の中の理想を作ろうとしていた。それじゃ駄目だ。投手が自ら作り上げた力を、捕手が仕上げる。それが、俺が最初に目指した姿なんだ。初心を忘れていたよ」
言うなりバッと立ち上がって、
「よし、今から練習だ!徹底的にやるぞ!」
「明日試合だっての。出るかも分からんし」
「ヘイヘイ、ボーイ達ー」
「「んあ?」」
「姉ちゃん、立ち聞きは趣味悪いで……」
俺のトラウマ、郷田姉登場。
部屋の隅に行こうとすると、首根っこを掴まれる。
反対の手には京平がいた。
「真紀、ちょっと借りてくよー」
「あ、コラ」
「さ、怒られる前に行くぞー」
俺達は有無を言う暇もなく連行された。
連行先は、庭だった。
庭には投球練習用のネット等が用意されていた。
「京平は知ってるよね。これは真紀が投球練習に使ってたんだ。今はもう素振りスペースになってるけどさ」
真紀の部屋にもトレーニング器具が置いてあったし、本当に野球の為の家って感じがする。
姉弟揃って野球人ってのはあるかもしれないけど。
「迅一君。京平。今から二人には、ある特訓をしてもらうよ。どうせ投げるなら、私が教えたげる」
「え、
京平は驚いていた。
その口調はわりと明るいので、多分良い事なんだろうけど。
「うん。ていうか、京平は知ってる筈だよ。一度だけだけど、受けている」
「一度だけ?……って、まさか」
「そう。かつての真紀のストレート。これを一晩で覚えてもらうよ」
真紀のストレート……?
「え?俺が?」
「そう。ブレッブレの迅一君本来のストレート。ツーシーム、スローボール、チェンジアップ。色んな形で君のストレートは勝ち続けてきた。そして、これから教えるのは、まさに私の考える究極系。郷田真紀が肩を壊す前に一度だけ投げた、野球人最高のストレートだよ」
肩を壊す前に投げたって事は、肩を壊す原因になった、って事ではないのか?
まさかとは思うが、念の為に聞いてみる事にした。
「それって、俺にも肩を壊す覚悟をしろって事ですか?」
その疑問に答えたのは京平だった。
「違うな。マキはこれを習得する前からもうボロボロだった。だから習得してもすぐに没になっちまったんだ。でも、俺が知る限り、あれはストレートの究極系の一つだ。同世代の代表クラスにも、投げられる奴はいねぇと思う」
そんなにか……。
ていうか、そんなストレートを俺に投げられるか?
投手時代の真紀は、話を聞く限り、世代最強のポテンシャルだったと思うのだが。それこそ、新宮と同等かそれ以上に。
「まさか、立ち聞きしただけで、迅一に投げられると思ったのか、姐さん」
「どういう経緯かは知らないけど、近い事をもうやってるみたいだからね。この際だから、教えてみようかなって」
「そりゃ近付きはするだろうけどな。でも球速とかフォームがまるっきり違うんだから、完成はしないだろ。だったら今持ってる武器を少しでも磨く方が合理的だ」
「甘いね京平。もう気付いてんでしょ。迅一君は、小手先の変化球なんか必要ない、ストレートだけで勝負できる投手だって」
そう言えば、監督にも言われたなと思い出した。
俺はストレートに関してもの凄いポテンシャルがあるらしい、と。
「でもそれをやらなかったのは何故か。まぁ時間が無かったのもそうだろうけど、一番は過去の亡霊に囚われているからでしょ?」
過去の亡霊。
その言葉が引っ掛かった。
「正直言って、あれを真似した所でマキを超えるイメージができなかった。だったら迅一自身に由来する球質を伸ばした方が効率的だろ」
「それを過去の亡霊だって言ってんの。全盛期ならともかく、ぶっ壊した肩で何とか仕上げた真っ直ぐなんか、不完全中の不完全よ。それを超えられないと思う時点でまず間違ってるわ」
「状況が違うだろ。肩の状態に気付いていて、投手に執着していたマキと、今の迅一じゃ全然違う」
「迅一君が投手に執着していないとでも?」
「そうは言ってないだろ」
おうおう、ヒートアップしてきた。
なるほどな。やはり俺が色々試している事に不安を感じていた理由は、嫉妬だけじゃなかったのか。
京平は俺本来のストレートを伸ばしながら、事を進めていこうとしていたんだ。
過去の反省を踏まえて、確実に基盤を築こうとしていたのを、俺が色々突っ走ってしまったから、齟齬が起きたのだ。
「有り余る力と、不安定なフォームと、多少の偶然に振り回されて、あの子は肩を壊した。そして京平もそれに気付けなかった。二人の不運はまだまだ無知な内にそれが起きた事ね。真紀に言われたでしょ。京平はまた同じ茨を踏むの?迅一君のフォームの負担を知っていながら、それを伸ばすと?」
「それは……」
「まぁフォーム矯正は失敗すればそれこそ故障の原因になるし、それなら現状安定している方を取るのは分かるわ。でも、迅一君は間違いなく基礎体力の貯金でやりくりしてるだけよ。長期的に見れば、今すぐにでも矯正する方が投球は安定するわ」
「……」
ぐぅの音も出ないとはこの事だ、みたいな顔をしている京平。面白い。
「迅一君、君が今試しているのは、ごく普通のストレートなのよね?」
「えぇ、まぁ。色んな人のアドバイスで、実戦レベルに持っていくのも早かったです」
「この短期間で実戦で使える様になるって事は、今までよりも安定しているし、身体に合っているって事。それをまだ未完成って言うって事は、何か足りないって思ってるって事よね?」
「まぁ、そうですね。まだ投げなれてないですし、回転は確かに掛かるんです。ただ、何か甘く入りやすいような気がするんですよ」
「その感覚は正解よ。回転力があるストレートは軌道が落ちない分、打者の想定より浮き上がる。言葉通りね。当然その分、高めに入りやすく、打者の勘も当たりやすくなる。特に金属バットとの相性は最悪ね。浮いた球なんか当たれば飛ぶもの」
なるほど。やっぱりノビのあるストレート、と一言で言っても万能ではないな。
浮き上がるって事は、甘いコースにもなりやすいって事だもんな。
「だから正確にコントロールしないと、長打確定コースに自ら放り込んでしまう、なんて事にもなりかねない。まして、長身の笠木久実はゾーンも広いし、狙い球になるのは確定だわ」
久実さんはストライクゾーンが広く、一個分外れたくらいでも平気でヒットにできる、まさに力と技を併せ持ったハイブリッド打者。
四強の主将は、それぞれ世代最強クラスの力を持っている。と、嶋さんに聞いた。
富樫観は変化球とスタミナ。
尾上信広は守備力と走力。
笠木久実は打撃能力。
勿論全ての能力が他よりズバ抜けているのだが、特にこれらの強みが、彼らを最強たらしめている。
そして実際に対戦し、目にし、それを実感している。
故障や不和などで本来の力を発揮できなかった部分はあるが、それらが無かったら、完膚なきまでに叩きのめされていたのは目に見えていた。
「でもね、そういったデメリットを凌ぐ程、そのストレートには力があるのよ。だから笠木鈴の切り札足り得るんだから」
「「……あ」」
そうだ、すっかり忘れていた。
元々鈴さんの超フォーシーム対策でこのストレートを投げていたんだった。
球質近いからって言う事で。
そうだよな。現状俺が感じている不安要素は、鈴さんがかつて通った道。
それでも使っているって事は、それが凄く強いからだ。
「だからって、笠木鈴のストレートに近付けていく意味は無いわ。あくまで目指すのは、現代のストレートの理想的な姿。かつて弟が完成させられなかった、私達の考えたストレートの究極系。これを習得できれば、この先の野球人生の一生モンになるわよ。特に迅一君にとってはね」
「それは分かりますけど、そんな一晩で覚えられるもんなんですか?」
「君の試合での投球を見る限り、コツ一つ聞けば、十球足らずで投げられる様になる筈よ。……ほら、ボサッとしない。京平、ミットを構えなさい」
「はいはい……」
京平が準備している間に、そのコツを聞く。
「あの、まさかフォーム矯正なんて言わないですよね?」
「言わないわけじゃないわよ。直せないとは思うけど、指摘はしていくから、意識して投げるようにはしなさい。さて、肝心の投げ方のコツだけど……」
俺は身構えた。
さぁ、何でも言ってみやがれ。これ以上驚かねぇぞ俺は。
「簡単よ。ボールと自分との距離を、最大まで離しなさい」
「……え?」
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