第12話 Welcome to the Bremen!

 昨日の朝に卵粥たまごがゆを食べたきりだというのに、空腹感はまるでなかった。いつもやけに早起きだというつむぎが用意してくれたパンとミルクをどうにか腹に収め、シャワーを浴びに風呂場に向かう。浴室の鏡に映る貧弱な体が情けなくて、朔也さくやは思わず目を背けながら血と汗と泥を洗い落とした。


 髪を拭きながら脱衣所に出ると、元々着ていた服はどこにもなく、代わりに真新しくはないがきちんと洗濯され、丁寧にアイロンをかけられた服が畳んで置いてあった。胸に温かいものがじんわりと込み上げてくるのを感じながら、手早く着替え、彼のもとに戻る。


「さっぱりしたか?」


 阿左見あざみは朝日の差し込む応接間のソファで朔也を待っていた。彼は朔也の姿を見ると、ちょっと大きかったかな、と言って小さく笑う。


「それ、俺が昔着てたやつなんだ。悪いな、お下がりで」


「いえ。すみません何度も」


 促されるままに阿左見の向かいに腰掛ける。先日ぶりの臙脂色のソファは相変わらず抜群の座り心地だった。『ブレーメン』にやってくる依頼人たちは、ここに通されて緊張をほぐすのだろう。


「その目、まだ元に戻らないのか」


 阿左見がローテーブル越しに顔を覗き込んでくる。


「……みたいです」


「目薬でも差すか?」


「いやアレルギーじゃないんですから」


「冗談だよ。それにしても、緑から赤に変わるなんて、まるでアレキサンドライトだな」


 朔也は首を傾げた。


「それは?」


「別名『皇帝の宝石』。自然光の下と人工照明の下とで、まったく違う色を見せる宝石だ。なるほど、あいつが欲しがるのも分かる気がするな」


「奴を知っているんですか?」


 思わずガタッと身を乗り出す。


「ああ、『グリムリーパー』とうちは何度も対立してるからな。お互い顔が割れてない面子メンツの方が少ないかもしれない。そういや、お前こそ奴らのことは知ってるのか?」


「いえ……この前初めて聞きました」


「『NOAHノア』については知ってるな? この国の変化獣へんげじゅうを統率し、秩序を保つための政府機関だ」


 変化獣の社会的地位は低い。二つの姿を持つ彼らを「人間」として扱うべきか否か今も議論が絶えず、現実は劣勢に傾いている。


 しかし、ただ放っておくには、この生物たちはあまりにも危険すぎる。人間百人と変化獣百人では、戦力の差は歴然だ。反乱を起こされてはひとたまりもない。


 そこで発足ほっそくしたのが『NOAHノア』だ。彼らがいるおかげで、この国は表面上の安全を取りつくろえている。


「ほとんどすべての変化獣のデータがこの機関で管理されている。ほとんどすべての、な。どういう意味かもう分かるだろ?」


 朔也はごくりと喉を鳴らした。


「『NOAHノア』の管理下から外れた変化獣たちの集団が『グリムリーパー』……?」


 阿左見は、よくできましたという風に頷いた。朔也は眉を寄せる。


「厄介ですね、 未登録の変化獣なんて」


「いや、お前も昨日までそうだったぞ」


「えっ」


「まあ珍しい話じゃないさ。安心しろ、俺が手続き済ませておいたから。それに、だからこそ『グリムリーパー』の奴らもお前を見つけるのが遅くなったんだろうしな」


「あ、ありがとうございます。すみません……」


 阿左見はコーヒーを一口飲み、息をついた。


「一言で言えば、『グリムリーパー』は『NOAHノア』が最も危険視している連中だ。うちと違って純度百パーセントの変化獣組織で、規模もはるかにでかい。そんな奴らと最前線で火花を散らしてるのが俺たちってわけだな」


 朔也は顎をぐっと引き、口を開く。


「阿佐見さん」


「ん?」


「俺を、『ブレーメン』に入れてくれませんか」


 何の脈絡もない発言だったが、阿左見はさして驚く様子もなかった。朔也は両手をぎゅっと握りしめ、深々と頭を下げる。


「自分勝手な頼みなのは分かっています。でも、俺は強くなりたいんです。……奴を、リカルドを倒すために。そして」


「お前が引き寄せる不幸に対応できるように、か?」


 顔を上げるのが怖かった。

 彼はどんな表情をしているのだろう。いきなり何を言い出すんだ、と呆れているだろうか。


「朔也」


 思わず肩が震えた。そろりと目を上げる。

 と、小さな何かが、ぽんと緩い放物線を描いて飛んできた。慌てて両手を差し出す。

 そっと手を開くと、そこにあったのは美しい金色のエンブレムだった。『ブレーメンの音楽隊』のシンボル、積み重なった動物たちがかたどられた徽章きしょう。朔也は目を見開いた。


「⋯⋯いいんですか?」


「『ブレーメン』の信条は『来る者拒まず去るもの追わず』だからな。歓迎するぜ、朔也。……と言いたいところだが、今回ばかりは隊長にお伺いを立てる必要があるかもしれない。まああの人のことだし、十中八九お前を気に入ると思うけどな」


「いつ帰ってくるんでしょうか?」


「さあな、明日かもしれないし一年後かもしれない。気ままな人なんだ」


 阿左見は窓の外に目を向け、何かを懐かしむように優しく微笑んだ。


「とはいえ訓練は厳しいぞ。名前にかれて入隊したはいいがすぐに辞めていった奴らも十や二十じゃない」


 朔也は手の中のエンブレムを見つめ、ぎゅっと握りしめた。


「俺……頑張ります」


「ああ。期待してるぞ」


 阿左見が半身を乗り出し、笑顔とともに拳を突き出す。朔也もエンブレムを握りこんだ右手を伸ばし、二つの拳はローテーブルの上でこつんとぶつかり合った。その瞬間。

 朔也の目の毒々しい赤色が溶けるように消えたかと思うと、何事もなかったかのようにもとの翡翠色に戻ったのだ。当事者の朔也にその様子は見えなかったが、奇妙な感覚と阿佐見の表情でそれが分かった。二人は唖然あぜんと顔を見合わせた。


「……戻ったぞ」


「みたいですね……」


 朔也と阿佐見は同時に吹き出した。まるでき物が落ちたかのようなすっきりとした気分だった。


「俺はそっちの色の方が好きだぜ」


 阿左見がそう言うのが、ひどく嬉しかった。あんな赤い目なんて、まるで悪魔と──奴と同等になったようで気持ちが悪い。


「さてと。もう夜が明けちまったが、お前は少し寝ろ。部屋に案内するよ」


 彼の後に続いて応接間を出る。廊下の柱時計を通りすがりざまに見ると、時刻は午前六時を回ろうとしていた。


「うちは寮制で、基本二人部屋なんだ。文句は言うなよ? 確か、けいの同室がまだいなかったはずだ」


 階段を二つ上って左に進んだ突き当たりが、くだんの部屋だった。扉の前で阿左見に礼を言って別れ、中に入る。二段ベッドと家具が備えつけられた、シンプルで小綺麗な部屋だった。確かに一人で使うには少々広すぎる気もする。


 朔也は早速ベッドに近づいた。下段は既に使用されている形跡が見て取れたので、梯子を登り、真新しい柔らかな寝具に身を横たえる。目を閉じると、疲れと睡魔がどっと全身に押し寄せ、朔也は瞬く間に眠りに落ちた。

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