第13話 つぎはぎ

 朔也さくやは真っ黒な空間に立っていた。見渡す限りどこまでも続く、ただひたすらに黒いだけの空間に。


 ここはどこなのだろう。ぼんやりと辺りを見回すと、果てしなく続く空間のずっと向こうに、千弦ちづるの姿が白く浮かんでいた。


 千弦さん!


 駆け寄ろうとして、何かおかしいと立ち止まる。が、そんな朔也に構わず、千弦の姿は音もなく近づいてくる。

 朔也の前でふわりと静止した白い影は、力なく垂らしていた腕をゆらりと上げた。細くて長い指が、まっすぐに朔也の顔を指し示す。

 彼の唇が動く。


 お前のせいだ、と。


 千弦の影が歪み、マッチで火をつけられたかのように炎に包まれる。その輪郭が黒く激しく歪む。お前のせいだ。お前のせいだ。音のない世界で、その言葉だけが呪詛のように朔也を絞めつける。


 叫びたかったのに、喉を振り絞ってもなぜか声が出せなかった。

 違う、違うんだ。俺のせいじゃない。わざとじゃないんだ。あなたを不幸にするつもりなんて少しもなかった。ただ一緒にいたかった、それだけなのに。


 千弦はいつの間にかリカルドの顔に、呪いの言葉は高らかな嘲笑に変わっていた。頭の奥が揺れる。甲高い音が響き渡る。


「……やさん、朔也さん!」


 ほとんど怒鳴るような声が耳元で鳴り響き、朔也ははっと目を覚ました。息は荒く、全身が汗でびっしょりだった。


「大丈夫っすか? すごくうなされてたっすけど……」


 見ると、二段ベッドの柵の隙間から心配そうなけいの顔が覗いていた。日は高く、窓の外は既に夏の日差しで満ちている。朔也は額を押さえながらのそりと起き上がった。


「ああ、ちょっと嫌な夢を……今何時だ?」


「もうすぐ十一時っす。まだ寝てますか? すいません、起こしちゃって」


「いや、もう大丈夫だ。ありがとう」


 言いながら朔也はこっそり耳飾りに触れた。大丈夫だ、分かっている。千弦さんはあんなことを言うような人じゃない。あれは自分の罪悪感が見せた幻影だ。ちゃんと分かっている。


 分かっているけれど、苦しかった。


 幸い悪夢を見たのは目覚める寸前だけだったようで、倦怠感けんたいかんや寝不足感はなかった。朔也は大きく伸びをひとつすると、梯子はしごを伝い、床に降り立った。


「桂、足はもう大丈夫なのか?」


「優秀な樫原かしはらセンセのおかげでこの通りっす」


 桂は笑って足をぷらぷらと揺らしてみせる。包帯も既に取れたようだ。朔也も思い出して自分の腕や腹を見るが、かすり傷を含め傷と名のつくものはすべて跡形もなく消えていた。


「すごいな」


「樫原さん、薬剤師の資格も持ってるらしいっすからね。でも安心しちゃダメっすよ、あの人の薬も万能ではないらしいっすから」


「ああ。それに、あの味にはもうこりごりだ」


 闇鍋を液体にしたかのごとく酷い例の薬の味を思い出して、朔也は舌を出した。


「朔也さん、起きたなら昼飯食いにいきません? 俺、お腹ペコペコっす」


 正直空腹感は相変わらずそれほどだったのだが、桂の提案で、二人は連れ立って部屋の外に出た。


 古いながらも磨き上げられた床板に響く自分の足音を聞きながら、朔也は思った。つくづく、この屋敷は不思議だと。


 朔也が今いる廊下や寮の部屋、最初に目覚めた応接間などは、暖炉やシャンデリアやアーチ型の格子窓のある洋風仕様だ。しかし、ひとつ角を曲がれば、あっという間に和の空間へと様変わりしてしまう。まるで二種類の建物をでたらめにつぎはぎしたかのような館なのだ。それでいて、そのぎ目に違和感はない。二つの異なる文化が織り成す空間はどこか奇妙で、心地よかった。


 まるで自分たちのようだ、とも思う。


 人間と獣が混ざり合った異種──変化獣へんげじゅう。その特殊すぎる生態から長年み嫌われ、迫害されてきた。朔也がこの家の外観を見たときに持った第一印象が「お化け屋敷」だったように、外側や一見しただけでは分からないものやことがこの世にはたくさんあるのだろうな、と思う。


「変な家でしょ? そこがいいんすけどね」


 朔也の視線に気づいてか、桂がそう言って同調する。彼はあ、そうだ、と言って突然駆け出したかと思うと、廊下に並ぶ窓の一つを押し開けた。


「俺、ここからの景色が特にお気に入りなんす。朔也さんもほら」


 桂と入れ替わるように窓の前に立つ。

 爽やかな風がさあっと吹き込み、庭の木々と朔也たちの髪をそよがせて吹き抜けていった。朔也は、両目を大きく見開いた。


 抜けるような空の下、どこまでも続く灰色の坂。錆びたカーブミラーと標識。向日葵の咲く踏切。家々のずっと向こうには、波が立つたびに宝石のように輝くコバルトブルーの海が覗いている。四角い枠の向こうに広がる景色は、夏で満ち満ちていた。


「綺麗だな……」


「ふふん。でしょ?」


 桂は自分のことのようにニコニコ笑っている。

 青空を分断して伸びる飛行機雲を追って顔を上げた朔也は、あ、と声を漏らした。


「どうしたんすか?」


「蜂の巣がある」


「えっどこに?」


「ほらあそこ、ひさしの隅の方」


「うわ、ほんとだ! ……でも蜂はいなさそうっすね。古巣みたいっす」


 こわごわと巣を見上げる桂の横をすり抜け、朔也は身軽な動作で窓のさんに飛び乗った。窓の上枠を掴み、大きく身を乗り出す。


「わ、ちょっ、何してるんすか!」


「蜂の巣、取った方がいいだろ。危ないし」


「ここ三階っすよ、落ちたら死んじゃうっす!」


「……俺、一応猫だぞ」


 腕を伸ばすと、かろうじて古巣に手が届いた。果物をもぎ取るような形で拳大の巣を回収する。古巣は枯葉のように乾いていて軽く、六角形を並べたハニカム構造が綺麗に残っていた。


「俺も見たいっす」


 桂が横から顔を突っ込み、おお、と声を上げる。


「隊長にあげたら喜びそうっすね。ほら、応接間のお土産コレクション。あれ全部隊長の私物なんすよ」


「旅行好きなのか?」


「はい。心のおもむくままにある日突然旅に出ちゃうんす。毎回おいしいお土産持って帰ってきてくれるんでいいんすけど」


 朔也は勢いをつけて窓枠から飛び降りようとした。


「あっ、危ない!」


 桂が鋭く叫んだ。視界の端に、廊下の角を曲がってくる人影が映ったが、もう遅かった。空中でとっさに身をひるがえしたが、避け切れず肩と肩が接触する。低い舌打ちが頭上から降ってきた。


「……おい、何ぶつかってんだよ」


 冷たく威圧的な声。顔を上げると、温度のない三白眼が朔也を見下ろしていた。アメジストのような、深い紫色の瞳。


「ややややばいっすよ朔也さん!」


 かたわらから桂が顔色を変えてささやいた。


「と、とにかくそれ隠して! 早く!」


 物事が矢継やつばやすぎて何が何だか分からないが、言われるがままにさっと後ろ手に回す。


「この人は?」


「先輩の桐谷颯きりたにはやてさんっす。言動にはほんと気をつけてください、後で色々面倒なことになるんで」


「何こそこそ喋ってんだよ、ああ?」


 彼の動きに合わせて、腰のチェーンがじゃらりと音を立てる。あおるように顔を寄せてきた颯は、ふと何かを悟ったような表情になった。


「ははん、もしかしてお前か? 噂の朝比奈あさひな朔也って新人は」


 したり顔でじりじりと距離を詰められ、後ずさった背中が壁に当たる。


「どんな奴かは知らねぇが、俺が教えてやるよ、この世界の厳しさってやつをなぁ」


 そこで、朔也の姿勢の不自然さに気がついたらしい。彼は眉根を寄せて凄んだ。


「おい、何隠してやがる」


「え、いやあの」


「見せろ」


「いやでも、これは桂が……」


 助けを求めて横を見ると、そこには誰もいなかった。狼狽ろうばいして素早く視線を巡らせる。すると、かろうじて廊下の角にさっと消える細長い尻尾が見えた。あの野郎、逃げやがった。


「あんの卑怯者……」


「ごちゃごちゃうるせぇなぁ。いいからさっさと見せやがれ!」


 颯は朔也の腕を無理やり掴んでぐいっと引っ張った。抵抗するすべもなく、蜂の巣は弾かれるように颯の目前に躍り出た。


 その途端、奇妙なことが起こった。


 まず、蜂の巣を見た颯の白目の面積が二倍になり、紫色の瞳の縁が剥き出しになった。腕を掴む手がこわばり、息を呑む音が微かに耳に届く。次の瞬間、絹をくような悲鳴が廊下中に響き渡り、朔也は思わず両手で耳を塞いだ。一方の颯はのけぞった勢いのまま、ぺたんと尻もちをついてしまった。


 な、ななな、なな。滑舌いいな、と思わず感心してしまうほどに言葉を詰まらせながら、わなわなと震える手で朔也の手元を指す。


「何でそんなもんがここにっ……!」


 朔也はどこか唖然あぜんとしながらも、何とか彼をなだめようと試みる。


「安心してください、蜂はいないので……」


「うるせぇ! 早く捨てろ!」


「あっ、はい」


 慌てて窓の外に古巣を放り投げる。颯は胸を押さえ肩を大きく上下させていたが、突然のパニック状態はどうにか収めたようだ。


 巣を見ただけで怖がるなんて、よっぽど蜂が怖いに違いないと朔也は思った。強面コワモテの先輩の意外な一面を見た気がして、むしろ何だか得をした気分にすらなる。


 大きく深呼吸をし、颯が立ち上がる。同時に、アメジストの目が朔也の足先から頭のてっぺんまでを舐めるようにじろりと見た。


「おい。その服、阿左見あざみさんのだよな?」


 肯定の意を伝えながら、よく分かるな、と感心する。彼はもう五年は着ていないと言っていたのに。


「前に着ていたやつがボロボロになっちゃったので貸してもらったんです」


「舐めてんのか?」


「……はい?」


「俺を舐めてんのかって言ってんだよ!」


 あまりの剣幕に、窓ガラスがびりびりと振動した。


「許さねぇ……そんな服着て歩くなんざ俺が許さねぇ! 確かにその色味も似合ってなくもないが、阿左見さんの銀髪とテメェの黒髪じゃ映える色が違うに決まってんだろ! サイズはあってねぇわ、着こなしは雑だわ……こんなんで街歩いて俺の顔に泥を塗るつもりか? おしゃれ番長の名に傷がついたらどうしてくれんだ!」


 これだけの台詞セリフを息継ぎなしでまくし立ててみせる。先ほどまでの弱々しい姿からのあまりの変わりように朔也は目が白黒する思いだった。この人、クスリでもやっているんじゃないだろうかなどと失礼なことを考えつつ朔也が圧倒されて何も言い返せないうちに、


「来い」


 腕をむんずと掴まれた。そしてそのまま大股で廊下を歩き出す。朔也は散歩嫌いの犬のようにつんのめりながら彼に連れていかれる。


「あ、あの、どこに行くんですか」


「俺の部屋だ」


「えっ、何で」


「決まってんだろ。テメェの服を選ぶんだよ」


 なんて強引な。急展開の連続で朔也は目眩めまいがしそうだった。


 とはいえ先輩の誘いを無下むげに断ることもできないし、一方で彼の選ぶ服に興味があるのも事実だったので、朔也は諦念ていねんとともに大人しく引きずられることにした。

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