第16話 見捨てられた街

 昼の喧騒も、夜の闇を焼くネオン街の光すらも届かない、仄暗い闇を抱いた港沿いの廃ビル街。落書きまみれの一帯は、拠点を求める異獣たちの格好の溜まり場でもある。

 管理者のいない、薄汚れた建築物の群れ。元来がんらい違法建築の多いこの街ではさして珍しい話ではないのだが、建設途中で管理会社が倒産したとかで、足場や機材が放置されたまま放置されているのだ。


「よし、ここだな」


 港にほど近いある一棟の前で、はやては足を止めた。四階建ての雑居ビルで、塗装は剥がれ、窓ガラスは老朽化ですべて割れてしまっている。人が住んでいるとは到底思えなかったが、耳を澄ますと談笑する男たちの声がかすかに聞こえた。


 入口の前に立つと、颯は何の躊躇ためらいもなく扉を蹴破った。


「ちょ、えっ、颯さん?!」


 初体験の朔也さくやにとって、これはいくらなんでも急すぎた。突入ってもっと慎重に行うものなのではないのだろうか。戸惑ったが、ひとまず入口横の壁に隠れて様子見を決め込むことにする。


「何だテメェ?!」


 剥き出しのコンクリートに四方を囲まれて思い思いに騒ぎ合っていたヤンキーたちは、突然の轟音に一斉に颯の方を見た。


「おーおーテメェらだなぁ、夜通しキャンキャンうるせぇ駄犬どもは?」


 落ちていた酒の空き缶を蹴り飛ばし、煙草の空き箱を踏み潰し、颯は躊躇ちゅうちょなく中に踏み込んでいく。不良たちが金属バットや鉄パイプを手にしているのを見つけて、朔也は内心焦った。颯は丸腰だ。そしてもちろん朔也も武器になるようなものは何も持っていない。


「テメェらがここに盗んだモン隠してるのは分かってんだよ。さっさとブツ出して大人しく警察に突き出されてくんねぇかな」


「証拠あんのか? あん?」


「うちの情報屋に調べさせたら面白ぇことが分かったんだよ。テメェら、被害者と無関係じゃねーみてぇだなぁ?」


 ざわ、と動揺が広がる。


「……ははっ。そこまで知られちゃ仕方ねぇな」


 薄汚れた茶髪の男が煙草をプッと吐き出し、汚れた靴裏で踏み消す。それにならって周りの仲間たちもゆらりと立ち上がった。どうやら彼がこの集団の頭らしい。


「八つ裂きにしてやんよ。お前も『ブレーメン』も俺たちを邪魔するクソ情報もなァ!」


 リーダー格が片手を挙げると、後ろに従っていた仲間の半分が一斉に犬に変化した。あとの半分は手に手に武器を持ってこちらを睨みつける。小型犬から大型犬まであらゆる種類の犬が大声で吠え立て、まるで収容所に入り込んでしまったかのような騒がしさだ。


「やっぱこうなるか」


 こき、と颯が首を鳴らす。


「弱い犬ほどよく吠える。……朔也、下がってろ」


 足を開き、前傾姿勢になる。鋭く光る紫色の瞳の先にはおよそ三十もの敵勢。


「かかれ、お前ら!」


 リーダーが叫び、野良犬たちが駆け出し、朔也が思わず施設内に足を踏み入れかけた、そのときだった。


「待て。こいつの顔どこかで……」


 先陣を切って颯に殴り掛かった男が、唐突に攻撃の手をピタリと止めた。眉根を寄せて颯を睨む彼の目が徐々に見開かれていき、顔がみるみる青ざめていく。かと思うと、耳をつんざくような叫び声を上げて飛び上がり、よろよろと後ずさった。


「や、やっぱりそうだ! 黒髪に白メッシュ、そして何よりあの禍々しい紫色の目……間違いねぇ、そいつはブレーメンの"無血の戦闘員"、桐谷きりたに颯だよ!」


「なっ……こいつが?!」


「まさか、そんな」


 ざわめきが波紋のように広がり、最大限まで高まっていた戦意や殺気がみるみるうちにしぼんでいくのが分かる。


「んだよ。やんのか、やんねぇのか?」


 颯が足を一歩踏み出すと、野良犬たちはひゅっと息を呑んだ。


 金属バットやら鉄パイプやらが耳障りな音を立てて床に落ち、カラフルな頭が颯を向いて一斉に土下座する。


「すいませんでしたあああっ!」


「物分かりがよくて助かるぜ。朔也、通報してくれ」


「もうしました」


 朔也が答えた途端、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。警察に引き渡し事情を説明している間も、ヤンキーたちは終始颯の方を見やってはビクビクと怯えていた。


「主にこういう変化獣犯罪を叩くのが俺らの仕事だな。ただ残念ながら俺たちに逮捕権はねぇ。できるのは相手を無力化して警察に引き渡すことだな」


「な、なるほど」


 戦い方を彼に学ぶつもりが、まさか手を下すまでもなく解決してしまうとは。凶暴な野良犬たちが姿を見ただけで恐れる変化獣――颯の正体はいったい何なのだろうか。


 人通りが増え、活気が息を吹き返してくる。街を縦断する大通りに出たらしい。


「あの、颯さ」


「なあ朔也……っと悪い、何だ?」


「あ、いえ。どうぞ」


「あいつらが襲ったっていう奴らさ、全員元飼い主なんだとよ」


「飼い、主……? 彼ら飼い犬だったんですか?」


「変化獣として生まれても、人間か動物のどちらかの道を選択して生きていく奴も少なくねぇ。それでも、この目のせいで当たり前の幸せを得られない者が多いんだ。人間としての幸せも、動物としての幸せもな」


 颯は言いながら自分の目元をとんとんと叩いた。変化獣の宝石のような美しい瞳は、人間たちにとっては値打ちのあるものだが、当人たちにとっては災いのもとでしかないのだ。


「さてと。じゃあ陸斗りくとのメロンパン買って帰るか。悪いな、あんま参考にならなかっただろ」


「あ、そのことなんですけど」


 さっき言いかけた問いを再び投げかけようとした朔也の真横を、人影がさっと通り過ぎた。蛍光灯の点滅すら認識する朔也の反射神経を以てしても完全に捉えることができないほどの高速で。ただ、その人物が角を曲がる瞬間、建物の陰に消える紺色のパーカーとこちらを見つめる金色の瞳をかろうじて視認した。


「今のは……」


「朔也、ちょっとここで待ってろ」


 颯がザッと足を踏み出した。


「いいか、絶対ここを離れるなよ。いいな」


 彼は真剣な表情で影が消えた方をじっと見つめていた。朔也が頷くのを確認すると、颯はブーツの裏で地面を蹴って走り出した。


 残された朔也は道の端に寄り、浮かない気分で電柱にもたれかかった。


 嫌な予感がする。いつもの、慣れることのない悪寒。


「颯さん、大丈夫かな……」


 そのときの朔也は、ひとりきりになった自分をじっと見つめている空色の瞳に気づくよしもなかった。


「お、いたいた」


 歌うように呟き、視線の主ユーリは人混みを抜けて歩き出そうとした。しかし、すぐに障害物にぶち当たる。道をふさぐように立ち話をし、馬鹿笑いしている男。ユーリはその背後に立ち、禿げ上がった頭を睨みつけた。


「おい、オッサン。ちょっとそこどいてくんねぇか」


「はあ? 何だね君」


 オッサン呼ばわりされた男は振り返り、自分を見下ろす空を映したかのような薄青色の双眸を、汚物でも見るような目で睨み返した。


「気色悪い……。何で俺が変化獣なんぞに道を譲らねばならないんだ! お前がどけ」


 男はわざとユーリに肩がぶつかるようにして通り過ぎ去ろうとした。


 ユーリは低く舌打ちした。獲物が目と鼻の先にいるというのに、わずらわしいことこの上ない。そこでふいに思い立った。


 そうだ、ちょうどいい。ここでひと騒ぎ起こして邪魔な連中を蹴散らしてやろう。ついでに馬鹿な人間どもに『グリムリーパー』の恐ろしさを植えつけることもできる。こいつはその生贄だ。


「ふぅん、そうかよ。残念だ」


 カチリ、と口輪の金具が外される音。


「じゃあここで死ね」


 しゅるりとベルトがほどけ、金属製の檻が攻撃的な落下音とともにアスファルトに落下する。残忍な笑みの端から鋭い犬歯が覗いた。


 ユーリの姿が消える。代わりに現れた四つ足の獣はボクサーの拳よりも素早い動きで男に飛びかかった。


 激しいうなり声が、雑踏ざっとうの間から響いた。


 人間のものではない。こんな街中にいるはずのない、獣の咆哮ほうこう。朔也は瞬時に声のした方を向く。途端、辺りが絶叫と混乱の渦に包まれた。


「人が食われたぞ!」


「きゃああっ!」


「血が……おい誰か救急車!」


「助けてぇ!」


 周りを取り囲んでいた人々が、一斉に通りの端に向かって走り出す。押し合い、ときに転びそうになりながら、とにかく声から離れようと反対側へ逃げていく。


「……『グリムリーパー』か」


 あっという間に人気のなくなった大通り。その先に、奴の姿はあった。

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