第18話 死神の刺客 後編

 その頃、闇色の人影とはやての奇妙な鬼ごっこはまだ続いていた。ジグザグと捉えどころのない動きで人混みの間を縫い、人間離れした身体能力で屋根から屋根へと飛び移って逃げる影を、颯は地上から辛抱強く追う。


「待ちやがれ!」


 相手が追跡者の存在に気がついているのは明らかだった。音もなく石畳に着地すると、フードの隙間からこちらを一瞥いちべつして細い路地裏に飛び込む。


「あいつ、ゴキブリかよ……!」


 薄暗い路地と相対すると、颯はわずかに躊躇した。ごくりと喉を鳴らし、水に入る前のように大きく息を吸って細長い闇に踏み込む。


 路地の向こうから生き物の気配はしない。だが、あいつが朔也さくやの横を通り抜けたあの瞬間、刃物のような鋭い殺気が彼に向けられるのが分かった。颯が瞬時に警戒態勢に入ったからか、あの場で手出しをするようなことはなかったものの、不安の種は早めに処理しておくに越したことはない。


 一歩一歩、探るように足を踏み出す。緊張の糸が限界まで張りつめる中、携帯端末の着信音が鳴り響き、颯は文字通り飛び上がって驚いた。わたわたと手元を狂わせながら何とか通話ボタンを押す。


「なっ、何だ」


「あ、もしもしビビり王子?」


 電話の相手は『ブレーメン』の情報屋、椎名六華しいなりっかだった。


「だからビビりじゃねぇって……んだよ、今はふざけてる場合じゃねぇんだ、用がないなら切るぞ」


「颯くんは冗談も通じないのかい? なんてね、ふふ。それじゃ本題に入らせてもらうけど」


 端末越しの声のトーンが変わる。


「『グリムリーパー』が動き出したんだ。狙いはおそらく……いや、確実に朔也くんだ」


「ああ、俺もたった今それらしい奴を追ってるところだ」


 暗闇に目が慣れ、視界が徐々に明瞭になっていく。


 自分が今相対している相手は、予想通り『グリムリーパー』の戦闘員、ナットという男だという。六華が情報を口頭で伝えていくのを聞きながら、暗い通路を進む。


 奴の年齢は十八、忍びの里出身で、忍装束の上からフード付きパーカーを着用、目は金色で、変化は――


 颯は足を止めた。


「いない……?」


 路地の正体は袋小路で、その先は行き止まりだった。変化して脱出したのか? まさしく忍者のようなあの身のこなしなら、壁の突起を足掛かりにして移動できるかもしれない。


『もしかして罠? あいつの目的は、颯くんを朔也くんから引き離すことで……』


 息を呑む音が聞こえ、六華が悲痛な叫び声を上げた。


『そんな、ボクとしたことが……ナットは単独犯じゃない!』


「まさか、この隙に……!」


 背後から殺気。


「……っ!」


 路地の外に向けかけた足をとっさに反転させ、颯は素早く体をひねった。


 刹那、飛来した衝撃が端末を手から弾き飛ばした。地面に墜落し、画面が派手に割れる。飛び散ったガラスの破片が光を反射して輝いた。


『颯くん? ちょっと! はや――』


 声が途切れる。接続が切れたようだ。これでは応援が呼べない。危機を察した六華が行動を起こしてくれるのを期待するしかない。


 壊れた端末の横に、衝撃の正体があった。颯は警戒しながら近づき、「それ」を拾い上げる。


 手のひらサイズの黒光りする武器だった。四方に刃先が突き出た独特なフォルム。これは──


「……手裏剣?」


 ヒュンッ


 風を切る音。


 はっとしたが、体勢や路地の狭さも相まり、今度は避けられなかった。


 背中に激痛。うめき声を漏らし、颯は数歩よろめいた。


 その背中には、落ちていたものと同じ手裏剣が深々と刺さっていた。


「クソッ……!」


 路地の奥を振り返る。間髪入れず、さらに武器が襲来した。


「あがっ……」


 今度は正面から。あまりの痛みに、その場に膝を落とす。


 胸に手を当てると、手裏剣の硬い感触とともに生ぬるい液体に触れた。暗闇でも分かる赤黒い色。ぬるっとした手触り。


 気道が縮み、ひゅっと変な音が喉から出た。呼吸が、脈が速くなる。鼓膜で響く。


 血だ。血、血、血――


 吐き気が込み上げ、颯はそばにあったゴミ箱に激しく嘔吐した。体の力が抜け、その場に倒れ込む。


 全身から冷や汗が噴き出るのが分かった。頭は熱いのに、体は氷のように冷たい。


「……最初の攻撃、まさか避けられるなんて思わなかった。さすがだね、特殊部隊員さん」


 路地の奥、暗闇から声と足音が近づいてくる。


 姿を現したのは、紺色のフードを被った小柄な青年だった。


「っ……やっぱりテメェか……!」


 ナットは颯の横を通り抜け、路地の出口に何かをいた。あれは……まきびしだ。


「それに比べて僕は、やっぱりただの役立たずの足手まといだ。ここまで誘い込んでおいて、奇襲ひとつまともにできないなんて」


 振り返ったナットの目を見て、颯はぎょっとした。


 彼の目はよどんでいた。劣等感に、自己嫌悪に、自責の念に。


「──あぁ、駄目だ……ちゃんとやらなくちゃ。みんなみたいに、ユーリの役に立たなくちゃ……」


 フードの上から両手で頭を押さえ、ナットはゆるゆると首を振った。自らに言い聞かせるようにぶつぶつと呟く。はっきり言って、異常だった。


 唐突に、猛々たけだけしい獣の咆哮ほうこうが辺りに響き渡り、大通りが一気に騒がしくなった。颯ははっと顔を上げる。


 ナットがここにいるということは、今頃朔也のもとには……


「テメェはおとり、俺の足止め役か……」


 あのときわざとそばを通ったのも、分かりやすく殺気を発してみせたのも、すべては颯を誘い出し朔也から遠ざけるため──


「動くなっ!」


 体を起こそうと身じろぎした颯を、血走った目が振り返る。猛烈な勢いで空を切った手裏剣が、体を支える腕に突き刺さった。


「ぐっ……!」


 再びどさりと倒れ込む。血溜まりに顔から突っ込み、今度は颯が正気を失ってしまいそうだった。反対に、攻撃が命中したことに安堵したのか、ナットはいくらか落ち着きを取り戻していた。


「その通りだよ、僕にできるのはせいぜいこんな小細工くらい。でも、それも今終わった。『ブレーメン』の隊員だっていうから一応警戒はしてたんだけど、考えすぎだったみたいだね」


 颯は奥歯を噛みしめる。


 こいつ、いや、こいつらは知っている。


「僕は自分が戦闘員に向いてるとはまったく思わない。――だからこそ、こうやってユーリのサポートをしてるわけだけど――でも、君が特殊部隊の一員としてふさわしいとはもっと思えない。ねぇ、教えてよ」


 ナットは颯のかたわらにしゃがみ込み、耳元で囁いた。


「恐怖症だらけのくせに、どうして隊員なんてやってるの?」

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