第19話 無血の戦闘員

 恐ろしいたけりとともに、鋭い牙が黒猫の胴体に食い込んだ。皮膚が裂け、血がにじみ、朔也さくやは顔をしかめた。


 狂犬は黒猫をくわえたまま頭を振り、力任せに投げ飛ばした。何の抵抗もできず、硬い地面に放り出される。アスファルトに傷口が擦れ、ビリビリと痛んだ。


 朔也は変化へんげを解き、はあはあと肩で息をした。


 体も心もボロボロだった。はやてにもらった服もブーツも、何もかも。


「おいおい、もう終わりか? まだ行けんだろ」


 ユーリが短剣を指で回しながら歩いてくる。満身創痍まんしんそういの朔也とは違い、余裕のある笑みを浮かべながら。交戦してから五分も経つというのに、朔也は相手にかすり傷一つつけられていない。


「うるさい」


 決心したばかりなのだ、強くなると。こんなところでやられるわけにはいかない。


 朔也は傷ついた左手をかばいながら、ゆっくりと立ち上がった。


 ユーリがふと、短剣をもてあそぶ手を止めた。


「なあ、もしかしてテメェ知らねぇのか?」


「……何のことだ」


「あのはやてとかいうヘボ野郎のことだよ。あいつ、恐怖症持ちなんだぜ。しかも一つじゃなくいくつものな」


「なっ……」


 朔也は驚いてその場に立ち尽くした。


 恐怖症。

 先端、高所、血液、そして集合体――この世には様々なものに対する恐怖症がある。それは朔也も知っていた。まさか颯がそうだったとは。


「笑っちまうよなぁ? 刃物もダメ、血も無理。つまり、ただのビビり野郎ってことだよ。何で特殊部隊にいられるのか不思議でたまらねぇぜ。今頃ナットにボコボコにされてるだろうよ。いや、あいつが手を下すまでもねぇか、ちょっと血でも見せりゃ勝手に自滅してくれるんだからな」


 ユーリは半笑いを浮かべてまくし立てる。


 頭に血が上った。


「先輩を馬鹿にするな!」


 朔也が言い終わるのを待たずにユーリが素早く動き、勢い良く突き倒された。馬乗りになり、両手で短剣を持ち直す。影のかかった彼の顔の中で、スカイブルーの両目だけがギラギラと輝いていた。


 喉元に刃の切っ先が迫る。朔也は間一髪のところで彼の手を掴み、何とか阻止した。


「くっ……」


「他人の心配ができるとは随分余裕だなぁ? そろそろ終わらせちまうぞ」


 ユーリはゆっくりと舌なめずりをした。短剣を差し向ける手にさらに力がこもる。


「その目、嗜虐心しぎゃくしんあおるんだよ。なぁ、いい加減諦めろよ。何でそこまで抵抗するんだ? 何もできねぇくせに」


 力の均衡が徐々に崩れていく。鋭い刃先が喉の皮膚を破った。鋭い痛みとともに真っ赤な血がつーっと首筋を伝う。


 もう無理だ。


 絶望的な心情で、朔也は思った。


 それもこれも、全部この不幸な体質のせいだ、と。


「ごめんなさい……千弦ちづるさん」


 喉の奥から絞り出すような声が漏れる。涙が一筋頬を流れた。


 もうすぐ、彼のもとへ行く。


 結局最期まで何もできなかったあわれな自分でも、彼ならいつものように笑って許してくれるだろうか。


「あばよ、疫病神やくびょうがみ様」


 高く大きく、短剣が振りかぶられた。その姿は、いやが応でもあの日のことを──あの寒い雨の夜を彷彿ほうふつとさせた。


 刃が迫る。稲妻の代わりに、強い夏の太陽がユーリを逆光に沈めていた。


「──ざけんじゃねぇよ」


 ふいに耳に届いた声。


 その声は、絶望に堕ちた朔也の心を照らす、まさに一筋の希望の光だった。


「誰がくたばってたまるか、こんなところで……!」


 ユーリの目が焦燥しょうそう狼狽ろうばいで泳ぐ。彼もまたを聞いたはずだ。が、湧き上がった感情は朔也のものと真逆らしかった。


「下がれ! 朔也!」


 相手が気を取られたわずかな隙を突き、拘束を抜け出す。大きく後ろに跳んだ朔也と入れ替わるように戦線に躍り出たのは、血まみれの戦闘員だった。


 想定外のことに、ユーリも驚いたらしい。戸惑いを隠しきれていなかったが、ボロボロの颯の姿を見て、すぐにその顔に嘲笑を取り戻す。


「だいぶナットに絞られたみてぇだな、白黒野郎。惨めだぜ。――俺がとどめに嚙みちぎってやるよ」


 ユーリは変化へんげした。前足に力をこめ、猛々たけだけしい咆哮ほうこうを上げながら駆け出す。


 颯の指先がピクッと震えるのを、朔也は見逃さなかった。恐怖の対象はユーリの牙か、はたまたそれ以外か。


 彼にとってこの世界は、計り知れない恐怖に満ちているのだろう。


 狂犬は颯のすぐそばまで迫っている。鋭利な二本の牙がどんな刃物よりも残酷に輝く。


 その巨体が今にも颯に飛びかかろうとした、そのとき。


 颯が姿を変えた。


 同時に朔也は思い出していた。颯の二つ名を――「無血の戦闘員」という異名を。


 猛犬がはっと目を見開いた。はっきりと浮かんだ恐れと驚愕の表情。


 慌てて前足に力をめ、急停止する。


 颯のもう一つの姿。


 黒い毛並みに、頭から尻尾にかけて流れる白い模様が特徴的な一匹の獣。防衛を極め、もはや攻撃にも特化した、どんな獣も姿を見ただけで逃げ出す自然の猛威。


 シマスカンク。哺乳類、食肉目イタチ科。学名Mephitis mephitis。


 ユーリは反射的に一歩後ずさった。が、既に遅かった。


 スカンクの尻尾がふさりと持ち上げられ――


 噴射された液体が、ユーリの顔面を直撃した。


 甲高い悲鳴が、辺り一帯に響き渡る。狂犬は前足で顔を覆い、こするように動かし、地面を転げ回った。


 スカンクの噴出する分泌液は、催涙ガスに例えられるほど強烈だ。しかも、ものすごく臭い。鼻の利くイヌ科にとってはこの上ない苦痛だろう。


「調子に乗るなよ、駄犬が」


 二つの紫色が、冷たくユーリを突き刺す。アメジストのような冷たく深い輝き。もがき苦しむユーリの目が恐怖に見開かれた。


 動きが鈍くなり、やがて彼はぐったりと動かなくなった。それを見届けると、颯も力尽きたようにその場に倒れ込んだ。


「颯さん!」


 彼のもとへ駆け寄ろうとした、その瞬間。

 凄まじい殺気を感じ、朔也は振り返った。と同時に素早く手を伸ばす。超人的な反射神経で掴んだのは、一枚の手裏剣だった。あともう少し遅ければ朔也の頭に直撃していただろう。


「僕だって役に立てるんだ……邪魔、しないでよ」


 声が降ってくる方向に顔を向ける。


 街灯の上に、一人の男が立っていた。

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