第3話 炎と追憶 後編

 二階建てのアパート『月光荘』が、彼の根城ねじろである。


 目的地に着いたところで、階段へ向かう千弦ちづるとは一旦別れた。

変化獣へんげじゅうお断り」と書かれた看板の前を通り抜け、塀に跳び上がる。千弦の部屋は角部屋なので、そこから窓を通って中に入ることができた。


「あれ、おっかしいなぁ」


 一足先に部屋に戻った千弦が、腰に片手を当て、しきりにリモコンのボタンを叩いていた。センサーの先にはエアコンがついているが、無機質な機械は黙りこくったまま微動だにしない。


「今朝まで普通に動いてたんだけど」


 変化へんげいて窓枠を乗り越えようとする体勢のまま、朔也さくやはうっと固まった。心当たりがあるといえばある。


「それ⋯⋯多分俺のせいです」


「はあ?」と、千弦は眉を吊り上げた。


「またいつもの不幸体質か? あのなぁ」


 つかつかと歩み寄ってきたかと思うと、朔也の頬を両側から思い切りつねる。痛い。


「たかがにゃんこ一匹のせいで運が変わるわけねぇだろ? お前はいちいち気負いすぎなの。まあ、確かにお前が来ると、家電が壊れたり雨漏りしたり画材が切れたりするけど」


「完全に俺じゃないですか、原因」


「揚げ足取るんじゃねぇよ。どれも命に関わるようなことじゃないからいいの」


「⋯⋯すみません」


「そうやってすぐ謝るのも悪い癖だぞ。分かったらよろしい」


 朔也は頬をさすりながら畳に腰を下ろした。千弦はキッチンの方へ足を向けたかと思うと、ふと振り返り、


「それに俺、お前といても不幸だと思ったことないしな」


 にっと口の端を上げて、そう言った。朔也はかすかに目を見開き、


「そうですか」


 慣れない仕草しぐさで微笑み返した。


 千弦は冷凍庫からアイスバーを二つ取り出し、一つを朔也に投げてよこした。


「この寒いのにですか?」


「だからうまいんだよ」


 苦笑する。いつものことながら、押しつけがましいというか何と言うか。ただ、その強引さに何度も救われたことがあるのも事実だった。


 アイスを口にくわえてどかっと畳に腰を下ろす千弦の横顔を、ヒーターの光が暖色に染める。その周囲には、立てかけられたイーゼルや雪崩なだれを起こしたキャンバスが雑然と置かれている。


 彼は画家を目指す美大生だ。仕送りもアルバイトもしていないらしく、朔也ほどではないがかなり切り詰めた生活をしている。スーパーでもやしを買い込んでいるのを見たこともあった。そのため、こうして食事に誘ってくれるのも極たまにだ。


 それでもよかった。そもそも朔也は腹を満たすことが目的で千弦と親しくしているわけではない。食べ物がないときも、彼と過ごしている間は空腹を忘れられた。


 朔也にとって千弦は、血の繋がりこそないものの、唯一心を許すことができる本当の兄のような存在だった。


「いただきます」


 袋を破り、冷たい甘さを味わう。千弦はアイスをくわえたまま、散乱した画材の山からガスコンロを掘り出していた。


「食材、何を買ったんですか」


「ん? 鍋の材料。肉とか野菜とか」


「千弦さん、鍋奉行ぶぎょうでしたっけ」


「おう、だから俺がいいって言うまで、ちゃんと『待て』するんだぞ」


「俺は犬じゃありません」


 他愛もない話をしながら、布がかけられた一枚の絵にふと目を留める。朔也はその布が外れているところを一度も見たことがない。


「あの絵、いつになったら見せてくれるんですか?」


 食べかけのアイスでキャンバスを示す。


「ああ、それか。聞いて驚くなよ」


 千弦は準備の手を止め、子どものような笑みを浮かべて言った。


「その絵な、街で一番の美術館で展示されることになったんだ。まだ満足行ってないから無理言って手元に置いてるんだけど。完成したら真っ先に見せてやるよ」


「本当ですか? それ、すごいじゃないですか!」


 朔也は思わず目を見開き、キャンバスと千弦とを交互に眺めた。


「楽しみにしてます」


「ああ、約束だ」


 千弦が小指を差し出す。相変わらず子どもっぽいことをするな、と思いながら、朔也も手を差し伸べ、小指を絡み合わせた。


 こんな日常がずっと続けばいいと思っていた。


 しかし、そんな願いも朔也には傲慢ごうまんだというように、ささやかな幸福は音を立てて崩れ落ちた。


「⋯⋯何か臭いませんか?」

 何かが焦げるような臭い。最初、千弦のガスコンロがその原因かと思ったが違った。


 外だ。


 勘づいたのも束の間、黒い煙が意思を持った生き物のようにドアの隙間から入り込んできた。見る見るうちに部屋中を満たしていく。何かが爆ぜる音が近くから聞こえた。


「火事だ!」


 千弦は素早く立ち上がった。朔也は唖然あぜんとしていた。


「だって、火災報知器は何も⋯⋯」


 言いかけて、ぞっとした。直感的に理解していた。


 自分が呼び込んだ不幸なのだと。


「逃げるぞ!」


 炎が赤くめ上げていく。壁を、天井を、千弦の画材を。


 布のかかったキャンバスを。


「でも、絵が!」


「そんなのはいいんだよ! 早く来い!」


 千弦が叫んだ途端、画集の詰め込まれた棚が、轟音ごうおんと共に倒壊した。覆い被さるように倒れてくるそれは、まるで朔也を喰らおうとする炎の怪物のようだった。


 立ち尽くす朔也を、千弦が突き飛ばした。その上に、瓦礫がれきが雨のように降り注いだ。


「千弦さん!」


 慌てて駆け寄る。


 下半身が瓦礫の下敷きになっている。千弦は腕を引っ張る朔也の手を振り払い、窓の方へ突き飛ばした。


「早く行け! お前なら窓から出られるだろ」


 そして、何かを投げた。小さなそれは、鈴の耳飾りだった。


 そのときになってやっと、朔也は今日がどんな日であるかを思い出した。


 今日──二月十三日は、朔也の誕生日。そして、朔也が千弦と初めて出会った日でもあった。


「幸せになれよ」


 それが、彼の最期の言葉だった。


 言葉にならない叫び声が、朔也の喉からほとばしった。


     *


 消火活動は夜まで続いた。


 消防隊が慌ただしく行き交う間も、朔也はただ呆然ぼうぜんと、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


 アパートにいた住人は、千弦を含め逃げ遅れた四人が死亡。出火原因は不明とのことだった。


 後になって、千弦が親に勘当かんどうされていたことを知った。定職に就かず夢を追う千弦の存在は異端で、御堂家にとって目障り以外の何でもなかったという。もしかすると彼は、孤独な自分の影を朔也に見ていたのかもしれない。


 放心した状態の中、朔也はふと、ずっとアイスの棒を握りしめたままだったということに気がついた。のろのろと手を持ち上げ、開く。


 そこには「はずれ」の三文字が、朔也を嘲笑あざわらうかのように、くっきりと刻まれていた。

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