第4話 花に嵐 前編

 鳥のさえずりが聞こえる。


「ん……」


 ゆるやかな眠気に後ろ髪を引かれながら、朔也さくやはゆっくりと目を開けた。

 目の前に広がっていたのは、細く切り取られた灰色の空でも、薄汚れたコンクリートでもなかった。一瞬混乱しかけたが、すぐに昨晩の出来事を思い出す。


「……ここは?」


 差し込む外光の眩しさに目を細めながら、上半身を起こす。濡れたタオルが額からぱさりと膝に落ち、朔也は、自分がソファに寝かされていたことに気づいた。いつの間にか、乾いた服に着替えさせられてもいる。


「目が覚めたっすか?」


 首を動かすと、向かいのソファに座った人物と目が合った。


「お、目は緑か。いい色っすね」


 オレンジ色の瞳が朔也を見て、にっと細められる。


 その瞬間、朔也の中で息をひそめる本能が、「あること」を直感として訴えかけた。

 思わずはっと息をむ。


「あ。その顔……やっぱり分かるんすね」


 組んだ脚に頬杖を突き、彼は目を細めて言った。


「俺が、あんたにとっての『捕食対象』だってこと」


 固まった朔也の頬を、冷たい汗が伝った。


「なーんて」


 何なんだこいつは、と思う。


 崩れた敬語を使ってはいるが、随分と馴れ馴れしく、人を食ったような態度のこの少年を、朔也はもちろん知らない。


 分からないことだらけだったが、とにかく状況を整理しようと辺りを見回す。


 朔也のいる部屋は、応接間のようだった。今は火の入っていない暖炉に、朔也たちの座る臙脂えんじ色のソファセット。


 壁にはアジアンなタペストリーと、アフリカ系民族の仮面、そして、童話「ブレーメンの音楽隊」の有名なワンシーンが描かれた絵画。

 マントルピースにもサイドボードにも、マトリョーシカやモザイクランプを筆頭とした外国の土産がずらりと並べられている。


「ここはどこなんだ?」


 好奇心に満ちた目で朔也の行動を眺めている少年に尋ねる。


「あれ、阿左見あざみさんから聞いてないんですか?」


 彼は意外そうに目を丸くした。


「ここは、『ブレーメン』の本部っすよ」


 阿佐見が身につけていたものと同じエンブレムが少年の胸元で外光をはね返し、一瞬目を眩ませた。


「『ブレーメン』……」


 ──居場所をなくした獣たちはブレーメンにやってくる。


 朔也はゆっくりと唾を飲み込んだ。


「『ブレーメン』って、いったい何なんだ」


「もしかしてあんたも噂を聞いて来た口っすか? 実際そんな大仰なもんじゃないっすよ。変化獣へんげじゅうべる政府機関、『NOAHノア』直属の特殊部隊──それが俺たち『ブレーメン』っす」


 少年はよく回る舌でそう説明した。

 自分が世間知らずなために今まで知らなかったが、昨晩の男の反応を見るに、相当な影響力を持った組織なのだろう。


「それより、具合は大丈夫っすか?」


 朔也はきょとんとした目を向けた。


「夕べ、ひどい高熱だったんすよ。覚えてないんすか? まあ、あの大雨にずっとさらされてたら、体の一つくらい壊しちゃいますよね。ろくに飯も食ってないって話じゃないっすか」


「お前が看病を?」


「そうっす」


「ありがとう」


 すると、少年はぽかんとした。何かおかしかったかと不安に思ったが、すぐにその顔に元の軽い笑みが戻る。


「いいっすよ、お礼なんて。その代わり、先輩方にちゃんと言っておいてくださいよ、『けいは気が利くいい奴だ』って」


「桂?」


「ああ、俺の名前っす。望月桂 もちづきけい。よろしくお願いしますね」


 ちょこんと首をかしげるしぐさは小憎らしかったが、それを許せてしまうだけの愛嬌も持ちあわせていた。


 とんとんと戸を叩く音がした。


「失礼しまーす……あ、お兄さん、お目覚めになったんですね!」


 ひょこりと顔を覗かせたのは、茶色の着物を着た一人の女の子だった。くりくりと丸い目と、顎の辺りで切りそろえられたボブヘアがかわいらしい。


「初めまして、桂さんの同僚の葉月紬 はづきつむぎです。お食事持ってきたんですけど、食べられそうですか?」


 言いながら、器の乗った盆を掲げてみせる。ふわりと温かな匂いが鼻をくすぐった。卵粥 たまごがゆだ。


 その瞬間、今の今まで意識の外にあった空腹感がものすごい勢いでやってきた。胃を掴まれるような、しぼられるような、ほとんど痛みと言っていいほどの感覚に顔をしかめる。


「どうぞ、冷めないうちに」


 はやる気持ちを抑えながら器を受け取る。つやつやと輝く柔らかな米が、とろりと卵をまとって湯気を上げていた。


 スプーンでひとさじすくい、口に運ぶ。


「……あつ」


 ひりっと舌の先に痛みが走った。焦らずとも、横取りする者はここにはいないと分かってはいるが、体に染みついた癖というのはなかなか抜けないものである。ふうふうと息を吹きかけ、今度こそ一口。


 米の甘みと卵のやさしい味が、舌いっぱいに広がった。遅れて鼻を抜ける、ねぎと鰹節の香り。再びスプーンを動かし、今度は冷め切るのも待たずに口に入れる。


 静かな部屋に、スプーンが器の底に当たるカツカツという音だけが響く。


 随分久しぶりだった。出来たての温かな食事も、誰かの手作りも。こうして満腹になるまで何かを食べるのも。


 朔也は米粒一つ残さず完食した。


「ごちそうさま。うまかった」


「本当ですか? 嬉しいです」


 頬を染めて喜ぶ紬の横で、桂が不服そうに口を尖らせる。


「あれくらい、俺でも作れるし」


「何言ってるんですか。桂さんのは料理じゃなくて事故です。また屋根を吹っ飛ばしたら、弁償じゃすみませんよ」


 慣れた調子で言葉を交わす二人を見て、朔也はふいに、紬の「桂さんの同僚」という言葉を思い出した。


 着物から伸びる細い手足を見て、内心首を捻る。こんな華奢きゃしゃな少女も戦闘員なのだろうか。


「そうやってすぐ噛みついてくるのやめろよな」


 桂が人差し指を突き付ける。紬はむっとしたようだった。


「桂さんが悪いんじゃないですか」


「ほら、そういうとこだよ。黙ってりゃ女の子らしいのに。ホントかわいくない奴──」


 目にも止まらぬ速さだった。


 気づいたときには、桂の首筋に、ぎらりと光る和鋏わばさみが突きつけられていた。


「あ?」


 巻き起こった風にはためいた着物の裾が、もとの位置に戻る。


 愛らしい見た目とはよほど似つかわしくないドスの利いたその声が、紬の口から発せられたものだと分かるまでに、少々の時間を要した。


「もう一回言ってみろ」


 カッと目を見開く。


「舌をちょん切ってやる。二度と口が利けねぇようにな」


「……すいませんでした」


 大人しく両手を肩の位置まで上げる桂。朔也は先ほどまでの考えを迷いなく打ち消した。


「あ、そうそう。阿佐見さんが、桂さんのことを呼んでましたよ。例の事件について話があるそうで」


 けろりと表情を変えて紬が言う。


「了解。すぐ行くよ」


 紬の後に続いて部屋から足を踏み出した桂は、ふと顔だけを覗かせ、


「逃げちゃ駄目っすよ」


 そう言ってにやりと笑った。心を見透かされたのかと、一瞬どきりとした。


 ドアが閉まる。その小さなかちゃりという音を聞くと、朔也は動き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る