第2話 炎と追憶 前編

 両親の顔は知らない。


 物心ついてからずっと、誰にも愛されずに生きてきた。孤独のただ中に放り出されたときも、朔也さくやに手を差し伸べてくれる者はいなかった。


 ただ一人、御堂千弦みどうちづるという男を除いて。


 北風の冷たい、冬の日のことだった。


「寒い⋯⋯」


 自分の毛皮に顔をうずめるように、小さく体を丸める。情けない声で腹の虫が鳴いた。


 身寄りのない朔也は、常に飢えに苦しんでいた。狩りはするし、ときどき、彼をただの動物だと信じた心優しい人が餌をくれることもある。困窮こんきゅうしたときにはゴミ捨て場をあさることも少なくなかった。

 しかし、それだけでは到底足りない。


 ふらふらと、当時ねぐらにしていた神社を出る。駅前通りか繁華街にでも行けば、人間の食べ残しにありつけるかもしれない。

 そう思ったのだが、神社から数メートルも離れないうちに、朔也の嗅覚が反応を示した。


 石段に、中年の男が一人座っていた。新聞紙を顔に乗せて眠っている。そのかたわらに、まだ手をつけられていないたい焼きが置かれていた。

 ごくりと喉が鳴った。酷く空腹なことに加えて、好物が目と鼻の先にある。


 ほとんど本能のままに、朔也は変化へんげしていた。

 黒い毛並みを持つ一匹の猫。それが、朔也のもう一つの姿だった。人間の前に現れるときは、基本的に動物の姿を取ることにしている。その方が警戒されにくいからだ。


 足音と気配を消し、ゆっくりと一歩ずつ、着実に忍び寄る。翡翠色の瞳に宿った鋭い光は、さながら獲物を狙うハンターだった。


 標的まであと数メートルというときだった。


「こーら」


 ひょいと体が宙に浮いた。


 一瞬、何が起こったか分からなかった。首を回して見ると、ぼさぼさ頭の青年が、朔也の首根っこを掴んで持ち上げていた。油絵の具の匂いがつんと鼻を突く。

 がさりと新聞を取り除け、男が怪訝けげんそうに二人──正確には一人と一匹──を見た。


「ああ、お気になさらず」


 青年はにっこりと男に笑いかけた。


「俺、猫好きなんですよ。だからつい」


 そして、朔也を捕まえたまま、きびすを返してすたすたとその場を離れる。神社が見えなくなったところで、彼はようやく手を離し、朔也は変化へんげを解いた。


「千弦さん、その持ち方やめてください。俺はもう仔猫じゃないんですよ」


 抗議したが、千弦は取り合ってくれない。横目で朔也を見ながら、


「まともに理性も保てない奴が何言ってんだよ。お前、今、盗みを働こうとしてただろ」


 図星を突かれ、言葉に詰まる。朔也は上目遣いがちに、


「だって、腹が減ってたから⋯⋯」


 と弁明した。そんな言い訳が通用するほど世の中は甘くないと、朔也も分かっている。


 ところが、それを許してしまうのがこの男なのだ。


「しょうがねぇなぁ」


 千弦は緩やかに笑み、手にしたレジ袋を顔の高さに掲げてみせた。確かめるまでもなく、詰まっているのは食料だった。


「うち、来るか?」


 もちろん、断る理由などなかった。

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