第1話 厄災の獣
雨が降っていた。
そんな土砂降りの中を、
一筋の閃光が雲間を走った。間を置いて、ひときわ大きな雷鳴が雨音を切り裂く。その音が合図だったかのように、朔也の体が前方に傾き、力なく地面に倒れ込んだ。
もう何日も食べ物を口にしておらず、空腹と疲労で彼の体力は限界に達しようとしていた。さらに追い打ちをかけるように、この冷たい雨が体温を、生きる気力を奪っていく。
どん、と体に衝撃が走った。
「おい、邪魔だテメェ!」
つまづいた男は舌打ちをし、
「って、その目……さてはお前、
髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。にやりと馬鹿にしたような笑い顔が
「……離せ」
震えるように小さく動いた唇から、
男の手をバシッと振り払い、勢いのままに水溜りに倒れ伏す。水を
癖のない黒髪に、目尻の吊り上がった切れ長の目。薄汚く感情のない、いつも通りの自分がそこにはいる。
そして、静かに見つめ返す瞳は――緑色。
「痛ぇな、何すんだこの野郎!」
男の足が勢い良く脇腹に突き刺さった。鈍い痛みが全身を走り、思わず
「ったく……これだから
振り上げられた傘の向こうで稲妻が光る。胎児のように腹を抱えてうずくまりながら、朔也はただぼんやりと、これで終わりなのかと考えた。
あの腕が振り下ろされた瞬間、自分はこの街のガラクタの一つと成り果てる。自分がいなくなったところで、悲しむ者はおろか、気づく者もいないだろう。
――あいつだよ、「
――本当、気味が悪いったらありゃしないわ。
脳裏に
悔しいが、彼らの言うことは真実だ。朔也は他人を不幸にする。それが例え、ただ一人手を差し伸べてくれた恩人であっても。
こんな自分の最期は、通りすがりの酔っ払いに殴り殺されるくらいがちょうどいいのかもしれない。
朔也はぎゅっと目を
「おい、やめろ」
ふいに、怒り狂う男の腕を、後ろから伸びてきた手が掴んだ。
「あ? 何だテメェ!」
「大丈夫か?」
一人の青年だった。この国の者ではないような銀髪が目を引く。
彼は横たわる朔也の
「うわ、冷て……まるで氷だな」
「兄ちゃん、やめといた方がいいぜ」
吐き出すように男が言う。
「そいつ、変化獣だぞ」
「それ、俺に言うか?」
立ち上がった青年は、顔を上げざまに濡れた前髪をかき上げた。
二人は同時に言葉を失った。
鋭く光る青年の瞳は、青色だった。
「お前、名前は?」
その瞳がまっすぐ朔也を捉える。何とか声を振り絞り、答える。
「……朝比奈、朔也です」
「朔也か。じっとしてろよ」
青年はひょいと朔也を担ぎ上げた。その
それを見た途端、男の態度が一変した。
「そのエンブレムはまさか……!」
酔いで赤らんでいた顔が、見る間に青ざめていく。
「わ、悪い! 許してくれ、そうとは知らなかったんだ!」
「別にいい。俺らは
肩越しに振り返り、青年は低く冷め切った目つきで男を凍りつかせた。
行くぞ、とくるりと
「……あの」
「何だ」
「すみません。俺のせいで、ご迷惑を……」
すると、青年はふっと笑った。
「いやさ、お前、野良だろ? ちゃんと敬語使えるんだな、と思ってよ。
よいしょ、と朔也を担ぎ直しながら、彼は続ける。
「お前が謝ることなんて何もねぇだろ。悪いのはあのおっさん。それと、お前を見殺しにする世の中だ」
「……えっと」
朔也の目が泳ぐ。それを察したのか、
「そういうときはな、ありがとうって言うんだよ」
「……ありがとうございます」
「分かったらもう喋るな。限界が近いんだろ」
その通りだったので、言われたまま大人しく口をつぐむ。しかしすぐに、どうしても気になることに思い当たり、
「名前……」
気がついたときには口に出していた。
「
「アザミさん……いい名前ですね」
「そうか? 女っぽいし、何より性格に棘がありそうだろ。まあ、あながち間違いとは言えないけどな、この通りの目つきだしよ」
そのときだった。
「っ……!」
唐突に、全身の毛が逆立つような悪寒に襲われた。いつもの、しかし決して慣れることのない感覚。
「危ない!」
朔也は大きく身をよじった。二人の体が弾かれるように離れる。
直後、さっきまで二人がいた場所に、派手な音を立ててネオン看板が落下した。
放り出された朔也の体は、勢い良くアスファルトに叩きつけられる。肺が圧迫され、一瞬息ができなかった。
「おいおい、マジかよ……」
バチバチと火花を上げる看板を見下ろして、阿佐見が信じられないというようにゆっくりと首を振った。
やはり、駄目なのか。
「……俺に関わったら駄目です」
「何でだよ」
「俺がいると、みんなが不幸になる。俺が……疫病神だから」
強く拳を握りしめる。
「俺がいなければ、
阿佐見は何とも言えない表情で短く溜息をついた。
「やっぱりお前、そっくりだな」
「え?」
彼は黙って、再び朔也を抱え上げた。その様子には何か有無を言わせない迫力があり、朔也はそれ以上抵抗せずに従う。そこで初めて、阿佐見の首に、チョーカーのような首輪のようなものが
「つーか、お前軽すぎだぞ。ちゃんと飯食ってんのか?」
小さくかぶりを振ると、阿佐見は空いている方の手でモッズコートのポケットを探り、
「ほら、これ。やるよ」
差し出されたのは飴玉だった。朔也はためらいがちにそれを手に取り、迷った末に、そのまま握りしめた。ここで失ってしまうのは何だか惜しい気がしたからだ。
「着いたらちゃんとしたもの食わせてやるから、今はそれで我慢しろ」
目を閉じ、心地よい揺れに身を任せる。冷たく凍てつくようだった雨は、今、頬を
久しぶりに味わう他人のぬくもりは、思っていたよりもずっと、温かかった。
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