第8話 燃える瞳 前編

 びついた階段を駆け上がる。

 立ちはだかる無機質な金属製の扉を跳ね飛ばすと、吹き込んだ風が髪を暴れさせた。


 辿り着いた先は殺風景な屋上だった。遮るものは何もなく、胸の高さくらいのフェンスがぐるりと外周を囲んでいる。強いいその香りが鼻孔びこうを刺激した。

 朔也さくやに続いて、目を血走らせた男たちが次々と扉から吐き出されてくる。大きく後ろに跳び、距離を開けた。


「もう諦めろ、小僧」


 男の一人が覆面をぎ取りながら怒鳴った。不清潔な無精髭ぶしょうひげに埋もれかけた口が、勝利を確信して歪む。


「状況が分かっているのか? 貴様に勝ち目はない。今降伏すれば、せめて売り物にはしてやろう。でなきゃ今すぐ肉片になれ」


「なら、冥土めいど土産みやげに一つだけ教えてくれ」


 あくまでも淡々と冷静な朔也の口ぶりに、男たちはきょを突かれた様子だった。泣きわめいて命乞いをするとでも思ったのだろうか。構わず続ける。


「お前らを差し向けたのはどこのどいつだ」


「……ふん、まあいい。死人に口なしだ、教えてやろう。そもそも俺たちに守秘義務なんてないしな」


「もったいぶってないで早く教えろ」


 男は気味の悪い笑みを取り戻した。そして無精髭をなでながら言った。


「『グリムリーパー』のおかしら様だよ」


『グリムリーパー』──死神。

 不穏な響きに、朔也はぐっと眉間に力を込める。


彼奴あやつは今までとは桁違いの報酬を約束してくれたんでな。だから貴様を、一攫千金のチャンスを逃がすわけにはいかないんだよ」


「なぜ俺なんだ」


「さあなぁ? 一つだけだと言っただろう。おしゃべりはここまでだ」


 後ずさった朔也の指が冷たい金属に触れる。その先に広がるのは、虚空。逃げ道は閉ざされた。


 かのように思われた。


「甘いな」


 朔也の唇が、ふっと笑みを形作った。


 男たちを見えたまま一歩、大きく後ろに跳ぶ。とんっ、と裸足はだしの足がフェンスに乗った。

 そのときになって、男たちはようやく朔也の思惑おもわくさとったらしい。


「なっ……逃がすか! お前ら、かかれ!」


 男たちが駆け出すのと同時に、朔也は冷たいフェンスを蹴った。


     *


 突如とつじょ現れた侵入者に向けて、機関銃が一斉に火を吹いた。夜の闇がそこだけ真昼のように明るく輝く。

 しかし、着弾よりも速くけいの姿が消えた。無数の弾丸は空をり、分厚いガラスの扉を容赦なく砕く。残ったのは火薬の匂いだけ。


「なっ……消えた?!」


「違う、奴も変化獣へんげじゅうだ! 目をらせ!」


「クソッ、暗くてよく見えねぇ……!」


 男たちは明らかな動揺を見せた。戦場では、そんな一刻の油断が命取りとなる。


 乾いた銃声が連続してとどろいた。


「がっ……」


 五人のうち三人が、後頭部への衝撃で倒れ込んだ。


「後ろだ!」


 振り向きざまに機関銃を構える。しかし、そこにはすでに桂の姿はない。


「無駄っすよ」


 ──背後から、声がした。


「的が小さすぎる。あんたらにとっては、ね」


「このっ……!」


 この距離、機関銃では到底間に合わない。男は力を振り絞って振り返りながら、ふところから拳銃を抜いた。


「舐めてんじゃねぇぞクソガキがぁ!」


 桂の反対側から、もう一人の戦闘員が応戦する。機関銃を撃つことを諦め、両手で掴んで振りかぶる。


 銃声。


 一瞬とも言えないほどわずかな間を置いて、構成員たちは同時に仰向けに吹き飛んだ。

 桂は左右に伸ばしていた腕をゆっくりと降ろした。その手には、どちらにも黒い拳銃が握られていた。


「残念。俺、両利きなんすよ」


 立ち昇る硝煙しょうえんをふっと吹く。


「まぁこれ、弾は偽物なんすけどね」


 銃をホルスターに差し込み、桂は男たちの体をひょいと飛び越えた。

 朔也は上階に向かったはず、と空を振り仰ぐ。


 ──その視線の先で。


 投げ出されるようにして、朔也の体がふわりと宙に浮いた。


「え?」


 地上七階分の高さから、地面に引き寄せられるように真っ逆さまに落ちてくる。下は一面の石畳いしだたみ、叩きつけられてはひとたまりもない。


「朔也さん!」


 桂が声を上げたのとほぼ同時だった。

 震える右手に拳銃を握りしめた男の一人が、最後の悪足掻わるあがきとばかりに地面からゆっくりと頭をもたげたのは。


 闇を切り裂いてぜた音と共に、加速した弾丸が桂の右足首をつらぬいた。


「あがっ……!」


 鮮血せんけつが散り、石畳にみを描く。かくんと膝が折れ、桂はつんのめって倒れ込んだ。


「朔也……さん」


 無駄だと分かっていて、それでも手を伸ばさずにはいられなかった。


 下からの風にバタバタと服をあおられながら、重力に従って落下する朔也。その体が、地上二階ほどの高さに到達したときだった。

 彼は、唐突に閉じていた目を開いた。


 そして、空中で変化へんげした。


 しなやかな体躯たいく、長い尻尾。夜の闇に溶けてしまいそうな毛並みの中で、唯一爛々らんらんと輝く翡翠色の双眸そうぼう


 猫。哺乳類、食肉目ネコ科。学名Felis silvestris catus。


 黒い獣は空中で半回転し、音も立てずに着地した。その動きからは踊り子のような優雅さすら感じられた。


「……はっ。やるじゃないっすか」


 伸ばしていた手をばたりと下ろす。桂の向かいで変化へんげを解いた朔也は、はっとして駆け寄った。


「桂、その足……」


 桂は苦痛と悔しさに唇を噛む。


「……不甲斐ないっす」


「立てるか」


「はい、何とか」


 桂に手を貸し、立ち上がらせる。


「それより、早くここを離れましょう。すぐに屋上に行った奴らが追いつ――」


 次に起こったことを頭が理解するまでに、少し時間がかかった。


 世界が九十度傾き、右半身に痛みが、ほとんど衝撃として襲いかかった。爆風が髪を吹き荒らす。粉塵ふんじんが舞う。酷い耳鳴り、染みた目に映る赤色――。


 さっきまで二人がいた廃ビルが、火の海と化していた。

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