第7話 小さな侵入者 後編

「えっと、鍵は⋯⋯」


 うろうろと彷徨さまよったけいの視線が、職務を怠慢たいまんしている監視のベルトに下がった鍵を捉えた。


「あれっすね」


 そしてまた姿をネズミへと変える。彼はやすやすと鉄格子をくぐり抜け、男のズボンによじ登ると、鍵をぶら下げている紐を噛みちぎった。

 落ちた鍵がコンクリートの床に跳ね返り、ちゃりん、と音を立てた。


「うーん?」


 ごそごそと監視が身じろぎをする。


 ざわっと全身の毛が逆立った。息を殺す二人の視線の先で、何度か身を揺すったかと思うと、男はまた寝息を立て始めた。ほっと胸をなで下ろす。

 桂は檻の向こうで人間の姿に戻ると、錠前に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。

 カチッと小気味よい音がし、微かにきしみながら鉄の扉が開いた。


「さあ、早く」


 足音を立てないように注意しながら狭い独房を出る。監視の横をすり抜け誰もいない廊下に出ると、ようやく一息つけた。だが脱出はまだ完了していない。むしろ、ここからが本番だ。

 その前に、朔也さくやには一つ確認しておきたいことがあった。


「なあ、桂」


「なんですか?」


「もうすぐ薬の効果が切れて、俺は変化へんげできるようになると思う」


「まだ開発途中でしょうし、もつのはきっとそれくらいっすよね。それがどうかしましたか?」


 朔也が言葉を探して言いよどんでいると、桂は目を細め、意地悪く笑んだ。


「もしかして、俺の言ったこと気にしてます?」


 心臓が小さく跳ねた。


 ――俺が、あんたにとっての『捕食対象』だってこと。


「……それは」


「ちょっとからかっただけっすよ。心配いらないっす、俺は朔也さんが思うほどヤワじゃないんで」


 そう言って、今度はにっこりと微笑む。


「そうか」


 階段を上り切ると、地上一階だった。


 桂によると、この建物は港近くの廃ビルだという。塗装のげた壁にびついたドアが並ぶ廊下は、なんとも言えず不気味だった。光源と言えるものは、今にも消えそうな非常口の緑色の光だけである。割れたガラス窓からは丸い月が見え、差し込む淡い光がひび割れた床に歪んだ四角形を描き並べていた。


 二人は用心しつつ廊下を覗き込む。見張りは一人だけ。見つかっても対処はできるだろうが、騒ぎは起こさないに越したことはない。


 ──だが、今回も運は朔也に味方してはくれなかった。彼がこの場にいる時点で、物事がとどこおりなく進むということはあり得ないのである。


 ぴちょん。


 暗闇の中、天井から滴り落ちた水滴が桂の鼻先で弾けた。


 極限まで集中力をぴんと張っていた桂は、その小さな衝撃で飛び上がり、両手で口を押さえた。危うく悲鳴を上げそうになるのをすんでのところで堪える。


 声は漏れなかった。が、飛び上がった弾みで足がもつれたらしく、彼の右足がガラスの破片はへんを踏んだ。ぱきっ、という軽い音が、静まり返った廊下に嫌に大きく響いた。


「誰だ!」


 朔也は低く舌を打った。おそらく自分の招いた不幸なのだろうということは、いつもの悪寒ですぐに分かった。おのれのツキのなさにはほとほと嫌気が刺す。

 桂が小声で平謝りするのを片手で制し、二人は半開きになった手近なドアに体を滑り込ませた。


 幸いにも、室内に人の気配はない。用心に用心を重ね、朔也はゆっくりと扉を閉める。


 ふいに袖を引かれた。いぶかしく思って見ると、桂は大きな目をさらに大きく見開いたまま、反対の手でゆっくりと部屋の中を指し示した。


 彼の背中越しに部屋を振り返る。


「っ……!」


 目の前に広がる光景に、朔也は思わず絶句した。


 壁一面の棚に並ぶ大小様々な瓶。その中に浮かぶ、色とりどりの目玉。――ざっと千はあるだろうか。非情で残酷な景色だが、これを見た者は誰もが同じ感想を持っただろう。


 美しい。


「悪趣味にもほどがある……」


 忌々しげに呟くと、桂がさっと唇の前に人差し指を立てた。廊下から二人分の足音と話し声が近づいてくるのを、彼の耳が察知したからである。


「まったく、一難去ってまた一難、っすね……」


 二人はさっと周囲に視線を巡らせる。


 ドアは? 朔也たちの入ってきた一つのみだ。今外に出れば、確実に敵と鉢合わせてしまう。

 窓は? そもそも存在しない。もともと倉庫だった部屋なのだろう。四方の壁はコンクリートで塗り固められ、扉を除く全面に陳列用の棚が作りつけられている。

 他は? ダクトやダストシュートなど、部屋の外に通じそうな道を探すが、殺風景な室内にはどれも見当たらない。その間にも、気配はすぐそこまで迫っている。


「あーもう!」


 桂が朔也の腕を掴み、ぐいっと棚の陰に引き込んだ。その直後、構成員が部屋に入ってきた。

 男たちは仕事をサボる場所としてここを選んだだけのようで、何をするでもなく他愛のない会話を続けていた。逃亡に勘づかれたわけではないらしいと安堵したのもつかの間、男の一人が、


「それにしても上手すぎると思わねぇか?」


「何がだよ?」


「今回の話。たかだか目玉一つで億単位だぜ? あの客絶対怪しいって」


「何でもいいだろ、金さえもらえりゃ」


 朔也は眉根を寄せた。


おぼろ』を動かした者が、他に存在する?


 とんとんと腕を叩かれる。桂がこちらを見上げ、ドアを指し示していた。見ると、構成員はちょうど死角となる位置の棚の前におり、なおかつ二人には背を向けている。朔也は頷き、小さな背中を追ってそっと部屋を出た。


「あの話、どういうことだ」


 収集室を足早に離れながら、朔也は強張こわばった声を殺した。


「分かりません。けど、これだけは確実に言えるっす」


 桂がこちらに目を向ける。


「黒幕は他にいる」


「目玉がどうとか……」


 分からない、と言うように桂は首を振る。不可解なことばかりで、朔也の胸の内は穏やかではなかった。

 注意深く角を曲がる。と、突然桂が立ち止まった。


「朔也さん、あれ!」


 その指の延長線上を辿ると――、


「あれは……!」


 観音開きのガラス戸。出口に違いない。


「奴らがいない内に、早く出ましょう」


「ああ」


 二人は肩を並べて駆け出す。そのときだった。


「おい、何やってるんだ!」


 どこからか大声が響いた。

 はっとして立ち止まると、視線の先に、ざっと二十人ほどだろうか、覆面を被った屈強くっきょうな男たちが現れた。


「侵入者か? 待て。あの翠眼すいがんの方……」


「まずい」


 気づかれたらしい。


「見つけたぞ!」


 まるでヌーの大群のような足音が近づき、背後で止まった。さっきの見張りが応援を呼んだらしい。朔也と桂は覆面の男たちに挟み撃ちにされてしまった。


「クソッ……俺が引きつける。お前は変化して逃げろ!」


 桂をドアの方へ突き飛ばし、朔也は上階へ続く階段に足をかけた。元はと言えば、狙われていたのは朔也一人だ。彼だけでも逃げてほしい。


「ちょ、朔也さん!」


 案の定、大群は桂に目もくれず、すべてが我先にと朔也の背を追って階段を駆け上がり出した。しかしそれは決して侵入者の討伐を諦めたからではなかった。


 背後に目を向け、桂は自嘲じちょうめいた苦笑をこぼした。


「この状況でどうやって逃げろっていうんすか」


 深い夜の闇の向こうから、半円状に並んだ五つの銃口が真っ直ぐ桂を捉えていた。

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