喪失(3)

夕方になると、また同じ場所に来る。螺旋階段を降り、また昇る。

前までは、この時間はあの本を読むための時間であったはずだ。

モラトリアムの猶予の時間を、僕は本に捧げようと努力し…落胆した。失望の念が、体を蝕む。

彼が、僕に与えたそれを知りたいのだ。

味わったことのない感情、そう、無常と切実の1行目のように。


無常と切実 98ページ


三角形のイデアは、不完全なのだ。なぜなら、それを考える人間が不完全であり実体や虚体に完全体など存在しない。

 しかし、私は完全体であるのだ。完全体という概念は、自己の中に作られる。自己以外届くことのできない、海や空を空っぽにしても届かない。

 完全体である私は、不完全な人間を蔑むのだ。

私の後ろに、私の不完全なイデアがある事を知らずに。


ペルシアは、講堂で同じ講義を受けるアズマを待っていた。講堂の天井、七色のステンドガラスは大学のシンボル。太陽が真上に来るとき、ステンドグラスから七色の太陽の光が差し込む… ペルシアはその光に包まれ、無常と切実の本を開いた。

「これは…?」 驚くべきことに、無常と切実の366ページ目。白紙だと思われていたページに、七色の光が差し込むと文字が浮かび上がるのだ。

アズマが到着し、その文字を記録した二人はその後解読することにした。


講義中、シルバニアの考古学を受けているとペルシアは

「シルバニアの言っていることは、ほとんど嘘だということを教えてやりたいわ。アルバートはまるっきり信じていたみたいだけど。」

と言い、講義中のノートを一切取っていなかった。シャーペンを机にコツコツさせて、一昨日買った新品の時計を眺めている。

「ペルシア、ノートだけでも取っておいたら?シルバニアは、ノート提出があるわよ。」アズマが、ぽつりと耳打ちで言った。

「えぇ!嘘よ、だったら早く言ってよ、アズマ…」

「あくまで、私の経験則だけどね。」

アズマがそう言うと、ペルシアは頬を赤らめた。


「えぇ!アルバート、寮にこもりきりだったのね…男子寮だから、私たちは行けないじゃない…」ペルシアがため息をつく。

講義が終わった後、無常と切実の本を持ちアルバートと解読しようと友人に訪ねたがアルバートは講義が終わるとすぐに寮に戻ってしまうのだった。

「無常と切実の本…中身は見られたくないわね。誰かに頼めるわけでもないし…ああ、そうよ!アズマ、あなた行けるんじゃない?」

 ショートカットに、男物の服装。ペルシアは、嫌がるアズマを説得し男子寮に入らせた。


「目の前には、二度と現れないつもりだったのに。」

アズマはそう言うと、男子寮に入るや否や、眼鏡をはずし髪を整えた。ペルシアが、寮の古びた入り口で待っていることを確認してそろりとアルバートのいる204号室へと向かう。管理人に呼び出しベルを鳴らしてもらい、ドアの前に立つ。

 古びたドアに、カギが掛かっていないことをアズマは知った。



講義の後、みんなには寮に引きこもってると言っている。

そうした方が、誰も気に欠けないし話さなくて済む。図書室の螺旋階段を上り下りしている不審者だと、忌避の目を向けられたくない。

 アルバートは、図書室を出た螺旋階段のあるホールの窓から見える光景を茫然と見つめる。すっと、座り込みうずくまる。


突然。


 ふっと、横に置いた手に感触がした。それは、柔らかい風のような包み込むような強さで僕を堕とし入れた。

「みーつけた。」耳元で、聞こえる声に安堵した。



「いない。」

 彼が居るはずの、204号室には誰もいなかった。ただ、彼らしい部屋がそこにあるだけ。彼なら、どうする?


 アズマは、思案を巡らせた。きしむ階段を降り、追いかけてくるペルシアを振り払ってあの場所へと向かう。自分が何をしているのか分からない、アズマはそう感じる。走るアズマの目つき、態度は男そのものであった。

 いや、どんどん変化していった。


 アズマが、ホールに着くとやはりアルバートはそこにいた。彼にばれないようにと、息を殺して。

 螺旋階段があるホールの窓辺に、うずくまる彼が愛おしく見えた。可愛らしく、自分をずっと待っててくれたのかとアズマは微笑む。それが嬉しくて、彼に語り掛けるのに必死であの本の事など忘れていた。


だから。


「みーつけた。」

ペルシアの声がして、アルバートは安堵し微笑んだ。ペルシアは、息を切らしぜえぜえ言っている。

「ペルシア…、もしかしてあの本を読み終えたのかい?君はいつも、講堂側から出るだろう。なぜこっち側に…」

「アズマの後を付けてきたの。アズマは…ああ、分からないわね。編入してきた、金髪の女の子よ。それで、あの本の366ページ目を見つけたの。アズマと解読しようとしてたんだけど、帰ったのかしら…本も彼女が持って帰ったみたいね。」

ペルシアが辺りを見渡しても、アズマの姿は無かった。

「僕は、もう読まない。そう決めた、これ以上落胆したくない。」目をそらすアルバートに、ペルシアはそっと頬にキスをする

「今度、一緒に読みましょう。明後日、お互い空きコマがあったはずだから講堂で読みましょ。」ペルシアがアルバートの耳元で、そっとつぶやく。赤らむアルバートは、寮に戻ると言い出しペルシアも見送って、寮の前で二人は別れた。


 部屋に戻ったアルバートは、自身の机の上に「無常と切実」の本と小さなメッセージカードが置かれていることに気づく。


 ”3日後の空きコマ。私とあなたの始まりの場所に、その本を持って来てください。追記:シルバニアの考古学講義は、ノート提出がある”


 アルバートは、名状しがたい感情に襲われた。腰が抜けるように、部屋の床へ寝っ転がった。メッセージカードを片手に、うずくまり思案を巡らせる。

 「あの時…経験則だって、言ったじゃないか。何も書いてないんだよ…」

アルバートはそう言うと、カードの字を一文字ずつ人差し指でなぞりはじめた。


 「君が僕に与えたもの、それは絶望。」

 アルバートは、文字をなぞりながら小さく言う。しかし、彼は絶望という言葉に違和感を覚え眉間にしわを寄せる。

 言葉にしたい衝動にかられ、言葉にしようとするも出てこない。喉から手を伸ばすのではなく、手を喉へ伸ばす。

そこにあるものは。


 ”どうだ?これが、本当の喪失だよ。感慨にふけるだろう?しかし、まだ足りない。”


アルバートは、息を詰まらす。


”「無常と切実」の本を最後まで読めば…”






3日後の放課後、彼は彼女の元へ足を走らせた。

「無常と切実」の本を持って。













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