第35話 たまには譲れ

 深夜、ケイネスは荷物をまとめて街を出ようと馬車を走らせ始めていた。荒らされた状況からして、強盗の目的が金ではなく自分が関わっている「別の仕事」についての情報であると分かった以上、相手が誰であれ自分の築き上げて来た物が奪われる危険性がある。そのため、一刻も早く身を隠さなければならなかった。ひとまずはどこかで時間を潰し、夜が明け次第駅へ向かうというのが算段である。調子に乗って購入していた別荘だったが、こんな時に役立つとはラッキーだったなどと考えていた時、御者が何かに慄いている様な声が耳に入って来た。


「そんな、嘘だろ…」

「どうした。何が見えてる?」

「バ…バネ足ジャックです」


 御者が見つめる先にあるのは、街でも観光名所として親しまれている聖堂である。歴史的にも非常に重要な文化財として管理されている建物の尖塔には、爪を使ってしがみ付いている怪人が月あかりに照らされていた。馬車の存在に気づいたらしい怪人は、走りゆく馬車に合わせて首を向け、やがて凄まじい勢いで尖塔を蹴り、路上へ向かって一直線に降る。


 慌てて馬車を止めた御者の目の前に土煙と瓦礫を撒き散らして着地した怪人は、立ち上がって静かに馬車の方を向く。ペストマスクのせいで表情を読み取れず、それによって醸し出される無機質な雰囲気が御者の不安を煽り立てる。しなるような足取りでゆっくり歩き出そうとした怪人を目の当たりにして、たまらず御者は隠していた拳銃を取り出し、威嚇代わりとして空に一発だけ発砲する。


「お、おい!命が惜しかったらどけ!」


 怪人の足取りが止まった事を目撃して、牽制するように銃を構えて御者は叫んだ。一度止まってくれた事で話が通じる相手かもしれないと微かに安堵した時、怪人は静かに膝を曲げる。そして全速力でこちらへ向かって走り出した。怯んだ御者はたまらず引き金を引いたが、軽やかなステップによって躱されてしまう。そのまま勢いに任せて跳躍した怪人は、大きな衝撃と共に馬車の上に飛び乗った。


 その異様な見た目とこちらを覗く眼差しに恐れをなした御者は、仕事をほっぽり出して逃げてしまった。馬達は統率が聞かなくなってしまった状況の中で暴れていたが、怪人が馬車の車輪を破壊した事で馬車が転倒しまい、逃げられない中で必死に蹄で音を立てながら藻掻いている。


 ケイネスは傾いている馬車の中で、醜い肥満体を必死に縮こまらせていた。外で起きているのであろう只ならぬ事態を察知してはいたが、それを覗く度胸などありはしない。先程の衝撃によって、自分がいつ死んでもおかしく状態に陥っているのだと悟り、決断を迫らされている様な気さえしていた。このまま緩やかに寿命が尽きるのを待つか、僅かな可能性に賭けて外の様子を見て見るか、その二択である。


 意を決したケイネスは、ゆっくりと小窓のカーテンをどかして外を見ようとする。しかし、それがまずかった。怪人は窓に張り付いてずっと待ち構えていたのである。ミスを犯したことに気づいたケイネスだが、既に後の祭りだった。間もなく怪人の腕が小窓を貫き、引っ掻き回すように暴れる。後ずさりしていたケイネスは、藁にも縋る思いで反対側の戸を開けて外へ転がり落ちた。


 そのまま逃げおおせようとしたが、そう上手く行くはずも無い。気づいた怪人はすぐに馬車を飛び越えて、必死に走り出そうとしていたケイネスの前に立ち塞がる。不気味な呼吸音が少々荒くなり、まるで怒りを現わしているかのようだった。


「待ってくれ…分かっている。お前を売った事についてだろう?私が悪かった…そうだ、金をやろう!それかどうだ?私の用心棒にならないか?言い値で雇ってやる…頼む、助けてくれ!」


 必死に縋り付くケイネスだったが、遅すぎる懺悔を聞くつもりは無いと怪人は鋭い爪で彼の肩を掴む。爪が食い込み、血を流しながら悲鳴を上げるケイネスに、もう片方の腕を振り下ろそうとした直後であった。突如現れたクリスが顔面に向かってドロップキックを放ってきた。そのまま吹っ飛ばされた怪人だったが、その拍子にケイネスの顔面を浅く引っ掻いてしまったらしい。再びケイネスが悲鳴を上げた。


「間に合っ…てるわけでもないな」


 うずくまって傷だらけになった顔や、血に染まった肩を抑えているケイネスを見て、クリスは困ったように言った。そして転がっているマスクの破片と、共に散らばっている妙な粉末に目をやる。それから少し遅れてイゾウも到着した。


「どうした?」

「余計な事をしたかもな」

「そんなのいつもだろ。話せ」

「見ろ、奴が付けているマスクの破片と一緒に落ちていた。香りからしてカノコソウの根と、メデューサの眼球を粉末にして炒った物だな。恐らくは香りを精神安定剤に使っていた…マスクに仕込んでまで、こんな物を摂取しなきゃならんとは相当気性が荒いらしい…そしてそのマスクをたった今、俺が壊した」


 吹き飛ばした先を見ると、起き上った怪人がこれまで聞いたことも無い様な甲高い雄たけびを上げ、狂ったようにのたうち回っていた。


「やっぱりか。ありゃ見境なく暴れて来るぞ」


 そう言いながらクリスが肩を回していると、刀を携えたイゾウが自身の進行を遮った。腰に下げるわけでもなく、グローブを嵌めた手に鞘が握られている。


「何だよ?」

「お前はこないだ暴れただろ。休憩がてらに雑用でもしてろ」


 疑問に思うクリスに対して、イゾウが答えつつ首を鳴らした。


「ハッ、俺の事を心配してくれてるのか?」

「騎士団をお前だけのワンマンチームだと思われるのは癪なんだ。終わるまでに尋問を済ませとけ」

「…どうぞお好きに。助けが欲しかったらいつでも言えよ」


 俺がやると言って怪人と対峙するため歩き出したイゾウに、クリスは冗談を交えて彼を見送るが、背を向けたまま中指を立てられた。ポーチから肉体強化薬を取り出して、飲み干して瓶を叩きつける。変異が完了した後にイゾウが怪人の前に立つと、向こうも落ち着いて来たらしく、敵を見定めたのかこちらを凝視していた。再び先程と同じ雄たけびを上げて威嚇するが、特に臆するわけでも無く、イゾウは鞘にしまったままの刀を再び握り直す。敵と思っているわけでも無く、ましてや金儲けに巻き込まれた被害者として憐れんでいるわけでも無い。迷惑な害虫を殺す際の心境と良く似ていた。

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