第33話 呂布、貂蝉に殉じる

 単騎、呂布が下邳の城門をくぐると、すぐに武装した兵が彼を取り囲んだ。

 その後ろで重々しい音と共に、城門の扉が閉ざされる。


 剣を構え取り囲む兵を見て呂布は苦笑をうかべた。みな呂布から一定の距離を置き、揃って腰が引けている。

「鍛え方が足らん。とんだ腑抜けどもだな」

 呂布が大きく嗤うと、その兵たちは建物に向け逃げ去った。


 呂布は顔をその政庁の入り口に向けた。政庁までの広場には歩兵と数十名の弓兵が彼を待ち構えている。

 その彼方、建物へ上る幅広いきざはしの上には侯成が立ち、足元には縛られた少女が力なく横たわっていた。

 呂布の目が大きく見開かれた。

「貂蝉……」


 ここからでは、彼女が生きているのかどうかさえ分からない。呂布は喉の奥で唸り声をあげ、侯成を睨みつけた。


「貂蝉っ!」

 呂布が大声で呼び掛けると、貂蝉は微かに身じろぎした。


「生きていたか」

 ふうっ、と息をついた呂布は方天戟を握り直す。鋼鉄をり合わせたような呂布の筋肉が力を孕んだ。一回り大きくなったその身体から、ゆらゆらと陽炎が立ち昇る。侯成配下の兵は思わず二三歩、後退あとずさっていた。


「おのれ。恐れるな、弓を構えろ!」

 指揮官の叱咤をうけ、弓兵が矢をつがえた。そのまま呂布に狙いをつける。

「放てっ!」

 侯成が手を振り下ろす。数十本の矢は呂布一人を目掛け襲い掛かった。


忿怒ふんぬ!」

 方天戟の一閃で、飛来した矢はすべて地に叩き落された。呂布はおろか、赤兎馬にあたったものすら一本もない。

「あの呂布という男は化け物か」

「こ、殺されるぞ!」

 兵たちは激しく動揺した。


 舌打ちした侯成は背後を振り向く。そこにはと呼ばれる機械式の弓が据えられている。現代で言えばボウガンを巨大にしたようなものだ。

 これは歯車を用いて三人がかりで強力な弓を引き、通常の倍ほどもある長大な矢を射る事ができる。それは人が手で引く弓の比ではない。甲冑で武装した兵士数人をまとめて貫通するほどの威力を持っていた。


てっ」

 兵が留め金を外す。

 ぶおん、という弓が弾ける音と共に、重いやじりをつけた矢が、凄まじい速度で射出された。その衝撃波で地面の砂塵が舞い上がった。


 矢は一直線に呂布に向かう。だが呂布はそのまま動こうとしなかった。

「死ね、呂布!」


 呂布は目を細めると、素早く左腕を伸ばした。彼は飛来する矢を横ざまに掴み取ったのだった。


 その瞬間、呂布の掌から 飛沫しぶきがあがった。弩の威力は呂布の掌の皮膚を破り、肉を裂いた。凄まじい握力と拮抗しながら、矢は呂布の胸甲に食い込んだところで止まった。

 受止めた呂布の左手からは白煙があがり、皮膚が焼ける異臭が周囲に満ちた。


「これで終わりか、侯成」

 牙を剥き、呂布は唸るように言った。

「貴様……蚩尤しゆうの生まれ変わりという噂は、本当か」

 侯成はその場にへたり込んだ。


 蚩尤とは中国の伝説上の武神である。全身が剣や槍、矛などの兵器で出来ており、三皇五帝のひとり、黄帝こうていに対し何度も叛逆を企てた邪神として名高い。

 史上初めて現れた、戦争による災厄の象徴でもあった。



「蚩尤とは光栄だ。……行くぞ、赤兎」

 呂布は馬腹を蹴った。赤兎馬は地響きをたてて駆け出す。

「破っ!」

 呂布が合図を送る。

 最前列で慌てて弓を構え直す弓兵の頭上を、赤兎馬は軽々と跳び越えた。


 呂布と貂蝉を隔てる兵士たちを蹴散らし、赤兎馬は猛進する。

 赤兎馬に胸板を踏み抜かれた兵は血を吐き絶命し、頭蓋を砕かれたものは脳漿をまき散らした。さらに逃げ惑う兵の背中を呂布の方天戟が襲う。


 本来の深紅の毛並みをさらに返り血で染め、赤兎馬は侯成の前に立つ。そしてその巨体に相応しい、雄大な体躯の男がその横に降り立った。

 這うように侯成が逃げ出すのに見向きもしない。



 呂布は貂蝉の許へ歩を進める。

 膝をつき、貂蝉の頬に手を伸ばした。血にまみれ、赤く腫れあがっている。


「おそいです……呂布」

 小さな声が、唇から漏れた。かすかに瞼が震える。


「すまん」

 呂布は頭をさげた。


 ☆


 間もなく下邳の城は曹操軍によって囲まれた。

 城兵のほとんどが寝返り、もはや守る者のない城門は簡単に突破され、なだれ込んだ曹操軍によって呂布は捕らえられた。


 縛り上げられた呂布と貂蝉の前に、武将たちを引き連れた曹操が姿をみせた。夏侯惇や曹仁、夏侯淵ら配下の将に加え、劉備と侯成も曹操に従っている。


「高順はどうしたんだ」

 しきりと挑発する侯成をまったく無視して、呂布は同じように捕虜となった張遼に訊いた。


 張遼は黙って首を横に振る。

 激闘の末、夏侯淵に討ち取られたのだった。先の敗戦の借りを返した形の夏侯淵だったが、人材好きな曹操の落胆は甚だしかった。


「頼みがある、曹操。この女の縄を解いてやってくれ」

 貂蝉はすでに、目を閉じ浅く弱い息をするだけになっていた。


「い、い、いけませんぞ。その女は董卓を殺したという噂があります。現にわたしの部下が何人も」

「黙れ、侯成!」

 呂布に一喝され侯成は震え上がった。


「董卓を斬ったのはこの俺だ。その女は関係ない」

「……」

 劉備は何か言いかけて、そっと目を逸らした。貂蝉の顔には、すでに死相があらわれ、この瞬間に息を引き取っても不思議ではない状態に見えた。


「俺はこの女から従僕と呼ばれていた。ひどく乱暴なあるじではあったが、こうなったら、やはり殉じなくてはならん」

 呂布は一度だけ笑みを見せ、静かな声で言った。

「貂蝉の縄をほどき、それを使って俺をくびり殺すがいい」


 静謐な空気がその場を包んだ。曹操ですら言葉を失い、透明な表情を浮かべた呂布の、最期の姿に見蕩れていた。



 城門付近のざわめきが伝わる。曹操は顔をあげた。

「なんだ、騒がしい」


「駄目ですよ師妹せんせい。勝手に入ったら怒られますから」

「よいのじゃ、廖化りょうか。金の匂いがわしを誘っているのだ」

 これぞ幼児の特権じゃ、とか言っている。

「金に誘われるって、どんな幼児なんですか」

 二人は平然と此方へやって来た。


「おい。せっかく俺の良い場面だったんだが」

 呂布は闖入して来た幼女と従者の少年を見て、口を尖らせ文句を言う。

「おお、なんだ。お主、呂布とか言ったな。おや、その女は……」


「……これは、どうしたのだ」

 貂蝉を見た華佗の表情が変わった。白皙にすっと血の色が上る。夜叉のような顔で一同を見回した。

「この貂蝉はわしの患者だ。それをこんな風にしたのは誰じゃ」

 

 華佗は隅で震える侯成に目を留めた。

「そうか。ならば、手術の時間かのう」

  

 陽が翳り、急速に気温が下がる。華佗の吐く息だけが白く凍った。




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