第32話 瀕死の貂蝉

 敗走した兵が続々と下邳城へ戻って来る。

「様子を見てきます」

 そう言うと陳宮は望楼を駆け下りていく。その背中を見送り、もう一度広場に集まりつつある兵士達に目をやった貂蝉は、どこか違和感を感じた。


「負傷者が少ない」

 激戦の末に敗退した軍の様相ではない。明らかに余力を残したまま意図的に撤退しているようだ。呂布指揮下の軍であればこんな事は有り得ない。

「陳宮さま、待って下さい。この軍は何かおかしい!」


 階下に向かって叫ぶ貂蝉の耳に陳宮の悲鳴が聞こえてきた。

「逃げろ、貂蝉どの! こいつらは、裏切って……」

 不意に陳宮の声が途切れた。

 鎧が触れ合う金属音と共に、階段を上がってくる足音が響く。


 貂蝉は壁に立て掛けた細身の長剣を手に取り、鞘から抜きはなった。


 ☆


 陳宮を屠った兵士たちは、望楼上に出た途端、次々に倒されていった。疾風のように舞う貂蝉の剣によって、一撃で首や手足を斬り飛ばされ、床に崩れ落ちた。

 恐慌に陥った他の兵士たちは、先を争うように階段を駆け下りる。転倒したものはそのまま踏みつぶされた。


 貂蝉もその後を追うように望楼を降り、城外へ逃走を図る。

「門を開けて、早く!」

 衛士はその勢いに押され、門扉に手をかける。すぐに通り抜けられるだけの隙間ができた。

 駆け寄ろうとした貂蝉は、背中に衝撃を受けその場に転倒した。激痛が走る。


「しまった……」

 振り返ると背中に一本の矢が刺さっている。息が苦しい。吐いた唾には血が混じっていた。


「手間をかけさせる女だ。罰を与えねばならないようだな」

 倒れた貂蝉の前に、甲冑姿の男が立った。敗走してきた筈の魏続だった。好色そうな表情を隠しもせず、貂蝉を覗き込む。

「呂布が戻ったら、奴の前で散々に嬲ってやる。愉しみにしておけ」


 貂蝉は手にした剣を横ざまに薙ぎ払った。狙いは甲冑の隙間がある膝だ。ざっくりと肉を切断する手ごたえはあった。

(しかし、浅手だったか)

 貂蝉は唇を噛んだ。背中の激痛で力が入りきらなかった。


 魏続は悲鳴をあげ、地面に転がった。

 そこへ侯成と宋憲が手勢を率い、追いついてきた。

「何をやっている。迂闊なやつだ」

 侯成は剣を抜いた。


 貂蝉に戦う力は残っていなかった。二度ほど侯成の斬撃を受止めたところで、貂蝉の剣は彼女の手を離れ、弾き飛ばされていた。

「取り押さえろ」


 兵士たちによって地面に押さえつけられた貂蝉の顔を、侯成は容赦なく軍靴で踏みつけた。

「この妖女め。大人しくしていれば良かったものを」

 そのまま、ぐいぐいと踏みにじる。


「こいつは俺に殺らせろ、侯成」

 両膝に包帯を巻き、兵士に支えられた魏続が憎悪を込めて睨みつけた。

「犯しながら、指先から切り刻んでやる」


「この女は人質だ。忘れたのか」

 宋憲が苦笑まじりに言う。彼らは貂蝉を人質に呂布を捕らえ、曹操に降伏するつもりだった。その功績は将軍位、あるいは諸侯の地位を与えられるに十分なものだ。


「それに、その怪我では女を抱くのは無理だろう」

「うるさい!」

 魏続は貂蝉の背中に刺さった矢に手をかけると、乱暴にこね回した後、一気に引き抜く。

「……!」

 声の無い悲鳴をあげた貂蝉は激しく身体を痙攣させた。


「その女を立たせろ。今ここで後ろから突っ込んでやる」

「仕方のない奴だ、ちょっと待て」

 宋憲は貂蝉の衿を掴むとぐい、と引き起こした。


 貂蝉の身体がくるりと向きを変える。袖口に隠した短刀を引き抜くと、掴まれた手を振りほどき、伸びあがって宋憲の喉を切り裂く。血をしぶかせた宋憲は仰向けに倒れ、動かなくなった。


「くそっ、たかが女ひとり」

 よろめきながらも両足を踏ん張り、短刀を構える貂蝉を兵士たちは遠巻きにして、誰も自分から近づこうとはしない。魏続に至っては腰を抜かし、ただ震えている体たらくだった。

 業を煮やした侯成は長剣を振りかざし、瀕死の少女に斬りかかった。


 振り下ろされた剣は、少女の短剣によって僅かに軌道が変わる。しかしその切っ先は貂蝉の左肩から胸にかけて深く切り裂いた。

 返す刀はまた貂蝉の短剣が防ぐ。短剣の刃は長剣の横腹を削り、貂蝉の身体から逸れた。

 侯成が振り下ろす剣は悉く貂蝉の短剣で弾かれた。その度に金属がこすれ合う甲高い音が響く。

「おのれ」

 これで何度目か、侯成の剣が貂蝉を襲う。

 

 それまで辛うじて切っ先を逸らすだけだった貂蝉の短剣は、侯成の長剣を真っ向から受止めた。

 その瞬間、長剣は鋭い音と共に折れ飛んだ。

「な、何だと?!」


 貂蝉は斬撃を受ける度、一寸の狂いも無く、長剣の全く同じ部分を削っていたのだ。侯成は折れた剣を信じられない表情で見詰めた。

 侯成の背中を冷や汗が伝う。戦場でも感じた事がない恐怖だった。


 だが、貂蝉の手から短剣が落ちる。

 がっくりと膝をついた貂蝉は、力尽き、そのまま地面へ倒れ伏した。



「呂布将軍が撤退して来ました!」

 城頭の監視兵が叫ぶ。

 侯成は貂蝉を見下ろした。まだかすかに動いている。死んではいない。

「恐ろしい女だ」

 手こずった分だけ役に立ってもらわねばならない。


「この女を縛って、城壁の上へ連れていけ」

 大きな犠牲を払ったが、結果的に手柄は独り占めできる。侯成はほくそ笑んだ。


 ☆


 曹操軍主力の来襲に、さしもの呂布も退却を余儀なくされた。それでも大崩れはしない。戦いつつ、じりじりと下邳へ退いてきたのだった。


 だが下邳の城門は閉ざされていた。城頭に立った侯成は弓兵を並べ、呂布軍を威嚇する。その城壁からは、ひとつの生首がぶら下げられていた。


「首が晒されているぞ」

 張遼が呻いた。

 それは陳宮のものだった。


「一人で城内へ来い、呂布! この女を助けたいだろう」

 侯成は嗤うと、髪を掴み少女を胸壁へ引きずり上げた。顔は無残に赤黒く腫れあがっている。衣服の肩から胸の辺りが大きく裂け、その傷から流れ出た血が壁を伝った。

 貂蝉はぐったりとしたまま、動く様子もない。


 呂布は、愛馬『赤兎馬』の首筋を撫でる。城頭を見上げたその顔には、かつてないほど獰猛な表情が浮かんでいた。



 こうして『人中に呂布あり 馬中に赤兎あり』と称された呂布は、愛馬と共に最後の戦いに向かう。


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