第31話 呂布、死地に陥る
曹操は劉備からの使者が到着する頃には、早くも詳細な徐州の情勢を入手していた。
敵を知り己を知れば
情報戦略において、曹操はこの当時の群雄より何歩も先を進んでいた。
「だが、通信方法がネコというのは、どうにかならないものか」
何度もくしゃみをしながら、曹操は夏侯惇に訴えた。
「仕方あるまい。曹純に虎豹騎の創設を認めたのはお前だぞ、曹操」
「まさか本気にするとは思わなかったのだ」
困り果てた曹操を見ながら、夏侯惇はネコを抱き上げた。
「便利なものではあるがな。ほら、こんなに可愛いし」
「だから、こっちに近づけるな」
参謀の程昱が懸念の表情を見せる。
「しかし、思ったよりも早く戦端が開かれそうです。呂布と劉備、もう少し睨みあってくれるものと思っておりましたが」
それは曹操も同感だった。
「おそらく高順が呂布に決断を促したのだ。もとより献帝を許都へお迎えするまでの時間稼ぎだ。もうよい頃合いだろう」
荀彧の工作により、献帝はすでに許都へと入っている。すでに目的は果たした。
曹操は地図を拡げた。
「徐州との境には夏侯淵が駐屯しているな。まずは夏侯淵を急行させよ。その後、準備ができ次第、曹仁の主力を送り込む」
「夏侯淵将軍には、この戦いの目的をはっきり伝えませんと。放っておいては、あの方は暴走されるので危険です」
曹操は頷いた。夏侯淵には状況を考えず突進する癖がある。
「相変わらずだからな、あの男は」
☆
呂布の許へ向かう貂蝉は、城外を埋め尽くした軍勢に眉をひそめた。
「いつの間にこんな大軍になった」
長安を脱出した時には、ほとんど呂布の手勢だけだった。すぐに張遼が加わったが、それでも千に届いていたかどうか。
それが続々と呂布の部将が集結し、もはや数万といった数になっている。
「どうだ貂蝉。この軍があれば劉備などすぐに打ち破れる。もうあんな根無し草のような奴に頼る必要はないぞ。この戦が終わったら、俺は長安へのぼる。そして献帝を奉戴して政事を執り行うことにするぞ。それが貂蝉の望みなのだろう?」
自信に満ちた呂布だったが、貂蝉は不安しか感じなかった。
張遼、高順そして陳宮はともかく、その他の将軍たちに問題がある。今でこそ呂布に大人しく従っているが、少しでも弱みを見せれば背後から牙を剥くような、危うさを秘めている気がしてならない。
「劉備さまとは和睦した方がいいと思います」
だが呂布は不機嫌そうに目を細めた。
「何を言う。まだ戦は始まってもいないのだぞ。それに、これは劉備が俺に喧嘩を売ってきたのだ。和を乞うなら劉備からに決まっている」
「でも、そもそもの原因は……」
言いかけた貂蝉の背中を陳宮がつつく。
呂布の左右に控える侯成や魏続、宋憲といった部将が剣に手をかけ、不穏な様子を見せていた。貂蝉は口をつぐむ他なかった。
「貂蝉、お前が俺を心配する気持ちはうれしいが、これからは男の闘いだ。俺は必ず勝つ。安心して城で待て」
呂布は騎乗し、号令を発した。
「出陣!」
☆
劉備が籠る小沛へは呂布率いる本隊は直進する。
一方、高順の別動隊はやや南へ迂回しながら向かった。これは曹操からの増援部隊である夏侯淵を牽制するためのものだった。手勢を取り上げられていた高順だったが、各部隊へ分散して属していた彼の部下たちが志願して戻ってきていた。
意気上がる高順の軍は恐るべき速度で進軍し、そのまま夏侯淵の軍に襲いかかった。まったく不意を突かれた夏侯淵は、防御陣を敷く間もなく高順の軍に呑み込まれ、あっけなく敗走した。
このような形での敗戦は、曹操も予想していなかった。すぐに曹操自らが軍を率い、徐州へと向かうことになった。
呂布の本隊は逆に劉備軍の激しい抵抗に遭った。
その原因は、先頭に立つ二人の男だった。劉備のふたりの義弟、関羽と張飛である。数を頼んで突入した宋憲と魏続の軍は、逆に散々に斬りたてられ、四散して後方に下がった。
「面白い」
呂布はそれを見て前線まで馬を進めた。
「この呂布に首を討って欲しいやつは掛かって来るがいい」
その前に立ちはだかったのは、巨大な青龍偃月刀を手にした長髯の男、関羽だった。
「今日は素面だからな、心行くまで相手をしてもらうぞ、呂布」
関羽は猛然と馬を走らせ呂布に迫る。
関羽の偃月刀と呂布の方天戟が激しく撃ち合い、火花を上げた。溶ける鉄の匂いまで伝わって来そうな闘いを両軍は固唾を呑んで見守った。
それはやがて、ほぼ互角か、やや呂布優位に推移していく。劉備陣営最強と云っていい関羽が押されている。見かねた張飛が加勢に飛び込んだ。
「死ねや、呂布!」
張飛が加わったことで、関羽はまた呂布を押し込んでいった。
しかしそれは、ほんの一時だった。呂布は関羽と張飛の二人を相手にしながら、二人ともを圧倒する剣技の冴えを見せ、まずは張飛を馬上から叩き落した。
「張飛!」
「脇見している暇はないぞ、髯男」
明らかに疲労が見える関羽に対し、まだ息さえ切らしていない呂布が襲い掛かる。防戦一方になる関羽を見かねた劉備は引き鉦を打たせた。
馬首を返した関羽を見て攻め込もうとした呂布の両脇を、劉備軍の新鋭が突いた。
「何だ貴様らは!」
それは全身を白銀の鎧で包んだ趙雲と、同じく漆黒で揃えた陳到だった。
彼らは関羽、張飛に劣らぬ武勇を見せ呂布の追撃を抑え込んだ。
「ちっ、劉備の麾下には厄介な連中が多い」
呂布は舌打ちして帰陣した。
その後、戦力に劣る劉備は小沛の城へ籠り、呂布がそれを囲むという戦況が出来上がった。
だがそれは長く続かなかった。
砂塵をあげ、曹操軍が参戦してきたのだ。劉備と呂布、両者の軍を圧倒するほどの大軍は野を埋め、小沛の城へ向け進軍してくる。
「曹操め、なんという大軍だ」
呂布は茫然とそれを見詰めた。
その呂布へ急報が入った。
「先に敗退した侯成、魏続、宋憲らは、撤退していた下邳城において、曹操に寝返りました!」
ここに呂布は、完全に孤立した。
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