第30話 劉備の陰謀

「落ち着くのだ、張飛」

 復讐に逸る張飛を制したのは劉備本人だった。温和な表情を崩さず、周囲の家臣たちを見渡した。

「下邳の状況は聞いたであろう。城内が平穏であるなら敢えて兵火を起こす事もあるまいと思う。何と言っても住民の安全が大事だからのう」


 それを聞いた若手の趙雲や陳到、それに徐州で新たに配下に加わった孫乾そんけんなどは感動して、溢れる涙を袖で拭っている。

「さすがは有徳の君子、劉備さまだ」

「わたしは一生ついて行きます」


 だが昔から劉備をよく知る関羽と張飛は、困ったように目配せし合った。

「また始まったぞ、関兄。長兄の

「うむ。無駄に格好つけるのは本当にやめて欲しいのだがな」


 この癖のために一体どれだけ損をしているのか、劉備本人は自覚していないようだ。そしてこの二人の懸念通り劉備はこれからも、格好つけのためだけに好機を逸し続ける。

 もちろん、それが劉備なのだと言われれば、否定しようもないが。


「あれで実は短気で、俺より手が早いのだからな」

「これ張飛。滅多な事を言うでない。長兄も最近はちゃんと更生しているではないか。以前のように賄賂を要求されたくらいで、その役人を半殺しにするような事もなくなっているのだ。立派に成長されたではないか」


「うん。あの時はおれが罪を被って、事なきを得たからな。いや、あれは肝を冷やした。ははは」


 えへん。劉備が凄まじい顔で咳払いした。

「それは何の話かな。のう関羽、張飛」


「いや、何でもありません。それでいかがします。下邳に入れないなら、とりあえず小沛にでも向かいますか」

「おお関羽の言うとおりだ。しかし呂布め……あの男」

 必ず殺してやる、劉備は口の中で呟いた。


 ☆


 劉備の正室である夫人ほど、何度も敵の捕虜にされた女性も珍しいのではないだろうか。今日もまた側室の甘夫人と共に城内の一室に監禁されていた。


「今回は扱いが良くて助かりますね、甘夫人」

「ええ。監禁といっても自宅ですし。でも旦那さまは戦さが本当にお弱いですこと。これでは身体がもちません」

「本当ですね。こうも度々、人質になっていては、ねぇ」

 ほほほ、と余裕で笑い合っている。


「糜夫人、何かご不自由はありませんか」

 貂蝉は彼女らを心配して、こうやって何度も訪問している。


「大丈夫です。この待遇もあなたが口添えして戴いたからだと聞きました。感謝します、貂蝉さま」

「いえ。力及ばず、申し訳ありません」

「本当に男という生き物は、バカで困りますよねぇ」

 貂蝉に糜夫人は優しく言った。


 糜夫人たち人質を監視しているのは高順こうじゅんという部将だった。少数だが統制のとれた部隊を率いて、戦場に出れば必ず相手を打ち破り『陥陣営かんじんえい』と綽名された。


 だがこの高順は呂布の部将の中では異例なほど高潔な人柄といっていい。酒は飲まず、賄賂も受け取らない。戦場での略奪も決して許さなかった。


 陣営のなかで呂布に対して強く諫言できるのは貂蝉の他には高順しかいないが、その潔癖さが仇となり、呂布からは信頼されつつも、疎まれている。

 手勢も取り上げられ、人質の監視という云わば閑職に回されているのはそのためだった。


「長らくご不便をお掛けしました。糜夫人、甘夫人。お二方にはこの城を出ていただく事になりました」

 高順が報告に訪れた。二人の夫人は顔を見合わせる。


「劉備どのが呂布将軍に降伏し小沛へ入られました。これより我らがお護りして小沛までお送り致します」

「まあ。だらしのない」

 甘夫人の言葉に高順は眉をひそめた。


「お言葉ですが。劉備どのは下邳の民とあなた方の安全を慮り、恥を忍んで膝を屈されたのです。軽率な物言いはお控えなさい」

 は、はい。甘夫人は顔を伏せた。


 ☆


 小沛の城に入ると、劉備はすぐに孫乾と麋竺びじくを呼んだ。麋竺は徐州屈指の資産家で、糜夫人の兄である。家族ぐるみで劉備に加担し、主に資金面でその行動を支えていた。麋竺の協力がなければ劉備は未だに一介の部隊長でしかなかっただろう。


 後に劉備は、諸葛孔明という軍師を得て蜀漢の皇帝となるが、それでも麋竺が臣下として序列の第一位で在り続けたのは、ひとえにこの貢献による。


「曹操と手を結ぶ」

 暗い顔で劉備は言った。その表情からも不本意なのは明らかだった。

「残念だが、我らだけで呂布を討つことは到底無理だ。曹操の力を借りて徐州を取り戻す他ない」

 命を受けた孫乾と麋竺は、密かに小沛を発った。


 糜夫人たちを連れ、高順が小沛へ到着したのはそのすぐ後だった。

 劉備に拝礼した高順は、居並ぶ劉備の家臣たちのなかに、糜夫人の兄である麋竺が居ないのに気付いた。人質となっていた妹が戻ったというのにだ。


 劉備陣営の人材を見るに、外交交渉を行う場合、麋竺が最適任に違いない。その男がいない。


「互いに協力し、徐州の安定に努めたいものだな。高順どの」

 劉備の言葉を冷ややかな表情で聞いた高順は、鋭い視線を劉備に向けた。


政事まつりごととは、ただ民のためでございます」

 一瞬、動揺の色を浮かべた劉備はすぐに笑顔で頷いた。

「そうだとも。高順どのはわたしの理想をよく分かっておられるな」


 退出した高順は、下邳に向け全力で馬を走らせた。

(劉備に叛心あり)

 高順は強く唇を噛んだ。奴はどこか他の勢力と手を結ぼうとしている。地勢的にいえば、おそらく袁紹か曹操だろう。

 ふと気付いた高順は、街道を外れ裏道へと入る。


「使者の高順を捕らえよ。斬っても構わん」

 劉備は高順を追跡させたが、街道筋を行く追手は彼を捕捉することは出来なかった。高順は下邳へ駆け込むことに成功した。

 

 報告を受けた呂布は、すぐに劉備討伐の兵をあげた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る