第29話 裏切られた劉備

下邳かひを占拠させたですって」

 貂蝉は耳を疑った。同席した陳宮も苦い顔を隠さない。

「どうした。それが何かまずかったか」

 呂布は赤い顔で杯を傾けている。


「侯成が言うには、近くで黄巾の残党が蜂起したらしい。もし城が陥ちたら劉備の夫人方がどんな目に遭うか知れたものではないだろう。だから城内の防備に向かわせたのだ」

「でも、張飛将軍が守っていた筈です」

「それじゃ足りないから、とか言っていたぞ」


 劉備は出陣にあたり、本拠地の守備に義弟の張飛を残していた。しかし、すでに張飛は敵軍襲来の情報によって郊外まで出陣していたのである。

 侯成や魏続の軍勢は易々と下邳に入城し、すぐさま城門を閉ざした。


 陳宮はそっと貂蝉の袖を引いた。

「どうも、やつらだけの発案ではない気がします」

 小声で陳宮が貂蝉に言った。それは貂蝉にも心当たりがあった。侯成や魏続らが呂布の下に馳せ参じた時期が、偶然にしては出来過ぎている。


「貂蝉どの。これは曹操の謀略に違いありません」

 呂布をそそのかし劉備と対立させることで双方の力を削ぎ、更には怨み深い徐州を戦乱の巷に陥れるつもりだろう。

「では、すべて曹操の指示で動いているのでしょうか」

 暫く考え込んだ後、陳宮は首を横に振った。


「細かな指示が与えられているとは思えません。ですが、徐州は切取り次第だ、くらいな事は吹き込まれているでしょう。まず内部分裂を起こさせるのは曹操の手口ですから」


「でも、それでは呂布が……」

 下邳の軍事占拠という暴挙を、侯成らが独断で行ったとは誰も思わないだろう。このままでは、たとえ行ったのが侯成であっても、すべてが呂布の命令という事になってしまう。


 そこで貂蝉は唇を噛んだ。呂布を利用したのは自分も同じだった。丁原、董卓の殺害は漢王朝の為とはいえ、結果的に巻き添えになった形の呂布は、主君を裏切る反覆常ない男、という虚像が世間では出来上がってしまっていた。


「わたしが言っていい事ではないけれど」

 それでもこの事態は放っておけない。劉備には献帝のために補翼の臣となってもらわなくてはならないのだ。


「呂布、わたしたちも下邳へ向かいましょう。あの男たちを好き勝手にさせてはいけません」

 しかしな、と呂布は顔をあげた。

「貂蝉が思うほど、奴らは悪い連中ではないぞ。それにこの城はどうする」

「こんな城こそ、捨てておいても構いませんから!」

 貂蝉は呂布を急き立て、下邳へ向かった。


 ☆


 献帝を自陣営に迎えるという案を持っていたのは荀彧だけではなかった。袁紹の謀臣、沮授そじゅもまた献帝を擁する利を袁紹に説いた。

 しかし、上位者を奉戴することは自らの野望の足枷になると判断したのだろう。袁紹はその策を退けている。


 これを曹操と比較して袁紹の愚かさだとされる事が多い。しかし潁川えいせん郡を中心として、これから勢力拡大に努める曹操に対し、すでに冀州、幽州、青州を手中にし、当時最大の勢力を誇る袁紹という違いもあっただろう。

 その気になれば、袁紹は自力で中原を制する事も可能であったが、曹操はとにかく、何であれ利用する他ない状況だったといえる。


 許都に入った献帝は、ようやく李傕の追手や野盗の襲撃から解放された。まだ少年の面影を残すこの若き皇帝は、曹操の手をとり安堵の涙にくれた。

 しかし献帝の平穏な日々は長くは続かない。

 彼はあくまでも曹操の道具として迎えられただけだったからだ。


 ☆


 関羽を主将に、趙雲と陳到を副将に配した劉備軍は、袁術軍を迎え撃った。数では勝る袁術軍だったが、ろくに兵糧も持たされず、士気は低かった。

 もはや、この徐州侵攻は狂気に囚われた袁術最後の悪あがきでしかなかった。劉備軍による三方からの攻撃に、袁術の軍は呆気なく崩壊し四散した。

 

 この敗報を知った袁術は側近と愛妾だけを連れ、族兄である袁紹の許を目指して逃亡する。だが敗走する中でも贅沢な食事を要求する袁術に、側近たちもついに彼を見放した。


 ある日、街道をゆく商人は道端の泥濘に顔を突っ込み息絶えている男に気付いた。戦乱に焼け出された難民にしては豪奢な衣服が目を引いたが、いずれ全て剥ぎ取られてしまうだろう。最近では特に珍しい光景では無かった。

 商人は何事も無かったかのように足を速め、その場を立ち去った。


 後漢末、最初に皇帝を称した袁術はまた、最初にその称号を失った男になった。



 凱旋する劉備軍の前に思いがけない敵が現れる。

 長安の治安維持に努め、献帝の脱出に際しても大きな働きをした楊奉だった。その功績を誇り傲慢な態度を隠さない楊奉は曹操と反目し、野に下ったのである。


 元来、楊奉は白波賊の頭目である。再び途々で略奪を働きながら徐州に侵入してきたところを劉備の軍と遭遇したのだった。

 勤皇という目的を失い、群盗に成り下がった楊奉は、組織だった劉備軍の攻勢に終始翻弄され、最後は関羽の青龍偃月刀によって、一撃で屠られた。

 

 ☆


「……まさか」

 張飛からの急使を受けた劉備はしばらくの間、何も言わなかった。やがて顔をあげ使者に問う。

「城内は、荒らされていないのだな」

「狼藉を働く者は厳罰に処すと、呂布将軍の下知があったようです。夫人のほか、ご家族方も皆、無事でございます」

 劉備はやっと息をついた。


 やがて張飛が手勢を率いて合流する。張飛は劉備の前にひれ伏し号泣した。

「俺が油断したばかりに。長兄、俺を斬って軍法を明らかにしてくれ」

 劉備は膝まづき、張飛の肩に手を置いた。


「何をいう張飛。家族を美麗な衣裳とすれば、義兄弟きょうだいは手足のようなものだ。美しいからといって、誰が衣服のために自らの手足を切り落としたりするであろう」

 おそらく現代では通用しにくい論理で、糜夫人のために思う事がないでもないが、劉備の張飛、関羽に寄せる気持ちはこのように強いものだったのである。


「簡雍。よく張飛を止めてくれた。感謝する」

 張飛は糜夫人たち奪還のため、無謀な下邳への突撃を図ったが、参軍として加わった簡雍がそれを引き止めたのだった。

 珍しく劉備に礼を言われた簡雍は茫洋とした笑みを浮かべ、大きく放屁した。



「では即座に立ち返り、下邳城を包囲しようではないか。必ず呂布の首を取ってやる」

 張飛は雪辱に燃え大声で吼えた。



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