第28話 曹操、献帝を奪う
この頃、献帝の境遇は悲惨を極めていた。
ふたたび漢の都となった長安では、亡き董卓配下の李傕と郭汜が権力を争い内戦を繰り広げている。
また、地方では諸侯が独立指向を強め、長安へ向けての朝貢も途絶えて久しい。
献帝の座す朝廷においても食料不足は甚だしく、腐りかけの肉や野菜でも有ればまだ良いとされるような状態である。
この処は廷臣でさえ、蠅がたかり異臭を放つ牛や馬の骨でとった煮汁で屑小麦を煮た粥のみ、それも日にわずか一食という日が続いていた。
そんな中、李傕の部将だった楊奉が叛旗を翻した。献帝の側近、董昭が李傕の弱体化を狙い離間を謀った結果だった。
楊奉は献帝を伴い長安を脱出することに成功。一路、東の方洛陽を目指した。
苦難の末、旧都洛陽に入った献帝だったが、荒れ果てて飢民が溢れているのは長安と何も変わらなかった。
仮の朝廷である
☆
曹操軍は一族の勇将、曹仁が先陣を切って徐州に攻め込んだ。しかし関羽率いる劉備軍の先鋒はさすがに精強で、数に勝る曹操軍も容易に攻略できずにいた。
「関羽か。……うーん、欲しい」
本営では曹操がしきりと唸っている。隣では夏侯惇が呆れた顔でため息をついた。曹操の人材収集癖は、時と場所を選ばない。
にゃー。
曹操の足元で猫が鳴いた。見ると、茶トラ猫が曹操を見上げてしきりと声をあげている。
「うん? ……ふ、ふ、ふえっくしょい!」
曹操は鼻をおさえ、眉をしかめた。彼は猫に近づくと、くしゃみや鼻水が出るのである。迷惑そうに足先でその猫を向こうに追いやる。
「こいつは曹純の『
夏侯惇がかがみ込む。
「猫ちゃん、どうした。お腹が減ったのか、んん?」
「夏侯惇、その口調はやめろ。猛将面が台無しだ」
「これは失礼。おお、こんな所に手紙が落ちておりますぞ。おそらく曹純からの密書ではないかと」
夏侯惇は本営の入り口付近の封書を拾い上げた。どうやら、ここまで猫が咥えて来たらしかった。
しかし……、猫に密書を持たせるような奴を部下にしておいていいのだろうか。曹操は自問する。
夏侯惇から手渡された封書を開いた曹操は思わず立ち上がっていた。
「荀彧を呼べ!」
戦場だというのにきっちりと冠を被り、謹厳な面持ちで荀彧は一礼した。
「荀彧、献帝陛下が長安を脱出し洛陽に入られたぞ」
「これは好機が訪れたようでございます」
うむ。曹操は頷いた。
「荀彧はすぐに
献帝を曹操自らの本拠地である許へ動座させる策は、かねてより荀彧が主張していたものだ。それまで献帝は遠く長安にあり、しかも内戦のただ中であった為、さすがの曹操も手を出しかねていたのだ。
命令を受け、荀彧は急ぎ足で本営を出ていった。
「さて夏侯惇。そうなると戦さをしている場合ではなくなったな」
「うむ。まあ好都合というべきか、戦線も膠着しているとはいえ、此方が圧倒しているのは間違いない。和睦交渉は容易だろう」
だが、謀臣の程昱を使者として送り出したところで、急報が入った。
伝令が息を切らし本営へ駆け込んでくる。
「本隊の右側面を騎馬部隊に突かれました。指揮しているのは、呂布!」
ちっ、と曹操は舌打ちした。
「呂布め、しばらく行方が分からなくなっていたが。肝心な時に邪魔をする奴だ。中軍から于禁と夏侯淵を向かわせろ。包囲して叩き潰すのだ」
「呂布が劉備の下にいたとは。厄介なことになりましたな」
「なに、やつら同士で争わせればいいだけの事だ。方法は幾らでもある」
苦い顔の夏侯惇に向かい、曹操はかすかに悪い笑みをみせた。
呂布率いる騎馬部隊は、飢えた猛獣のように曹操軍を食い破った。だが、彼我の戦力差は大きく曹操の本陣まで到達する事は出来なかった。
さらに敵の増援によって包囲の危機に陥る。
「一旦退くぞ」
呂布は張遼に命じた。それもただ後退したのでは敵の思うつぼだ。猛進を続けながら、緩やかに円を描くように戦場を離脱するのである。高度な戦術眼と部隊運営が必要とされるこの退避機動を呂布と張遼は易々とやってのけた。
わずかな兵を失ったものの包囲を逃れて距離をとった呂布は、双方の陣から鳴らされる引き鉦の音を聞いた。
「停戦のようだな」
呂布は劉備の本陣へと軍を退いた。
☆
この戦のあと、小沛へ駐屯している呂布を訪れる軍団が相次いだ。
かつて呂布とともに戦ったことのある侯成、魏続といった将がそれを率いていた。これにより呂布の兵力は、いつの間にか劉備を凌ぐまでになった。
だが著しく兵の質が劣るこの新しい軍団は、徐州の牧である劉備を侮り、小沛のような小城しか与えられていない事に不満を募らせていった。
次第に、呂布に対しあからさまに簒奪をそそのかすようになる。
「力あるものが支配する。それが当然の
代わる代わる、侯成や魏続が呂布に迫った。
「あんな軟弱な男のもとでは戦えないぞ、呂布」
その度に彼らをたしなめて来た呂布だった。彼自身、劉備を裏切るつもりなどない。貂蝉が劉備を信じるのであれば、呂布もまた信じるまでだと思っていたのである。
ある時、袁術の侵攻が報じられ、劉備みずから主力軍を率いて迎撃に出た。
これにより下邳の城は、ほぼ空になる。呂布の軍団は曹操への備えとして小沛に残ることになった。
侯成らは、それを知ると下邳の守備を名目に軍を発した。
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