第25話 神医は治療に淫する

 意識を失った貂蝉を抱え、呂布は手近な空き家に入った。

 奥に据えられたしょう(寝台)へ静かに横たえると、貂蝉の血の気を失った唇に頬を寄せる。

「大丈夫だ、まだ息がある」

「不吉なことを言うな、呂布」

 張遼は呂布の後頭部をはたいた。


 家の周りを兵士たちが心配そうに取り囲んでいる。短い期間にも関わらず、不思議なほど貂蝉は兵士たちから慕われていた。


「こんな不愛想で乱暴な女のどこがいいのだろうな」

 呂布は、窓や扉の隙間から覗き込む兵士を見て首を傾げている。

 乱暴なのはお前に対してだけだ、こんな場合だが張遼は可笑しくなった。


 ここまで野営続きの行軍である。いかに鍛錬しているとは云え、少女の華奢な体には相当な負担だった事は想像に難くない。


「俺たちが思う以上に疲れていたのだろう。そこに、この男があんな話を持ち込んだから、緊張の糸が切れたのではないか」


 ふたりは部屋の入口で立ちつくす陳宮を見た。張遼と呂布の鋭い視線に、陳宮はさらに身を縮めた。

「あ、あの。その女性は一体何者なのですか」


「……貂蝉の弟は、長安で命の危機を迎えているという、献帝その人だ」


「はあ、なるほど」

 張遼の説明に、ふんふん、と頷いた陳宮は慌てて顔をあげた。

「えっ、ではこの方は皇姉殿下ということですか?!」


「おや、そうなのか張遼?」

「おい」

 呂布、これまで何を聞いていた。


 その時、何やら家の外が騒がしくなった。



「途を開けろ。邪魔じゃ」

 若いというより幼い女の声がする。やがて兵士たちを押しのけ、ひとりの少女が入って来た。後ろに大きな荷物を背負った若い男を従えている。更にその後ろからは一匹の仔猫がついて来た。


「ここに病人がいるであろう。金の匂いがするぞ」

 十歳くらいの見た目の割に年寄りじみた口調で言うと、くんくん鼻を鳴らす。

 少女は貂蝉が横たわる牀へ歩み寄り、その玲瓏な顔を覗き込んだ。

「お、この娘は」

 驚いたように声をあげ、目を丸くした。


「こうやって再会できるとは思わなんだが。今までよく生き延びたものだ」

 小さな手で貂蝉の頬を撫でながら、優しい声で言う。

「だがどうやら、またわしの治療が必要になったようじゃのう」


 少女は呂布の方を振り向いた。

「この娘の治療代は、お前が払うのか」

「あ、ああ。いや待て、治療が必要なほど悪いのか、貂蝉は」

「貂蝉? 今はそういう名前なのか。……そうだな、放っておけばこのまま衰弱して、それっきりだろう」


師妹せんせい、薬の用意ができました」

 背中の荷物を開け怪しげなものを調合していた、助手らしい男が呼び掛ける。少女は小鉢で練り上げたどす黒い粘液状のものを指で掬い取った。

 つん、と鼻をつく匂いが部屋に漂う。


「それは大丈夫なのか、いやそれより」

「誰だ、お前は」

 呂布と張遼は揃って声をあげた。


「ほう、わしか。わしはちまたでは「神医」と呼ばれておる。神医 華佗かだといえばお主らでも知っておろう」

 その少女、華佗はにやりと笑った。


 ☆


 華佗は後漢の末期、各地で施術を行った名医として知られる。麻沸散まふつさんと呼ぶ麻酔薬を発明し、その医療内容は外科、内科、脳神経外科にまで及ぶ。

 その当時から年齢は百歳を越えていると言われ、白髪・白髯の老人としての絵姿が残る。


「しかしその姿は。失礼ながら子供にしか見えませんが」

 張遼は華佗のいかにも少女らしい扁平な体を何度も見直す。


「知らぬのか、張遼。人は齢をとると子供に還っていくと云うではないか」

 なぜか得意げに華佗はふんぞり返った。


「それは精神的なものではありませんか。肉体が幼女化するなど、聞いた事がありませんが」

 華佗はむふふ、と意味ありげに微笑む。

「まあ、詳しい話は後からじゃ」


 華佗は貂蝉の唇をこじ開け、薬の付いた指を押し込んだ。そのまま、ぐりぐりと口中に薬を塗り付ける。

「お、おえ、おぐぇぇ……」

 途端に貂蝉が身もだえし、えづき始めた。


「押えろ、廖化りょうか

「はい。でも、もっと飲みやすい薬を考えて下さい、師妹」

 うんざりした表情の若い男が、激しく痙攣する貂蝉の身体を押さえつける。

 やがて力尽きたように貂蝉は動かなくなった。呂布と張遼の頬に冷や汗が伝う。

「ま、まさか」


「どうだ、死んだか」

「師妹がそれ言っちゃだめです。まだ生きてますから」

「そうか、それは僥倖」


 張遼の目が細められた。

「何やら不穏な台詞ばかり聞こえてくるではないか。事と次第によっては、只では置かんぞ」

 明かな殺気を放ち、腰の剣に手をかけ華佗に迫る。


「ほら。また怒られたじゃないですか」

「やれやれ、若い者は気が短くていかんのう。おい、貴様ら長生きできんぞ」

 華佗はまったく動じた様子はない。


「う、うう」

 貂蝉が呻いて目を開けた。ぼんやりと辺りを見回す。

「おお。気が付いたか」

 覗き込んだ華佗に気付き、貂蝉は目を瞠る。

「華佗さま、どうしてここに」

 その表情には、すっかり生気が戻っていた。


「なに、野暮用でな」

 ふふん、と華佗は笑った。陶謙の重臣、陳登が病に倒れたため、その治療を依頼されていたのである。腹中の寄生虫を除去し陳登は健康を回復した、と史書に残っている。


 ☆


 貂蝉と華佗の最初の出会いがどのようなものであったのか記録はない。

 一説には、王允が董卓と呂布の反間を図るため、最初は不美人であった貂蝉の首を伝説の美女、西施せいしとすげ替えた。その手術を行ったのが華佗だという。


 しかし西施は何百年も前の女性である。たとえ頭部が残っていたとしても木乃伊ミイラに違いない。おそらくは皇后こうごうによって、母親の王美人と共に後宮を追われた際、受けた傷を治療してもらったのではないだろうか。


「陶謙はそろそろ危ないだろう。じゃから、下邳かひに着いたら劉備という男を頼るといい。見た目は信義に篤い男だからのう」



 華佗は呂布から金品や食料を受け取ると、従者の廖化と猫の那由他なゆたを連れて去って行った。


 

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