第24話 名参謀は虚弱体質
さいわい、と言ってよいものか。曹操軍が去った後の街は人影さえ無く、部隊を駐屯させるための空き家には事欠かなかった。
この街の住民は曹操軍侵攻の噂を聞き、いち早く逃れたのだろう。殺戮が行われた形跡は無かった。
元々は豊かな街のようである。すぐに食糧も見つかった。
「今、必要とする分だけ貰っていきましょう。無用の略奪は止めさせて下さい」
貂蝉は呂布と張遼に命じる。
「しかし騎馬民族は、奪える時に根こそぎ奪う、と云うのが本分なんだがな」
やや不満げな張遼を、貂蝉は冷ややかな目で睨み付けた。珊瑚のような唇がわずかに歪み、真っ白な犬歯が覗く。
そのまましばらく沈黙したあと。
「……はぁ?」
地獄の底から響くような声を発した。
「いえ。な、何でもありません。ここは
冷や汗にまみれ、張遼は頭を下げた。
「ふふふ、迂闊だぞ張遼。その女に反論は厳禁だと言っただろう」
呂布は隣室の扉の陰から顔を出した。
「女をたてておけば家庭は平和に収まる、ひいては世の安寧につながるのだ。よく覚えておけ、張遼」
「う、うむ。異論が無いではないが、この場はそう思っておこう」
貂蝉はじろり、と呂布を見る。
「ところで、あなたは何をしているんですか。呂布」
「え?」
呂布は両手に、あふれる程大量の食糧が入った袋を提げている。
「必要なものだけ、と言ったでしょう。人の話を聞きなさいっ!」
「だけど、ここの住人もいつ帰ってくるか分からんぞ」
残しておいてもな、と呂布は部屋中を見回した。
小さく頷いた貂蝉は、哀しみを含んだ視線を呂布に向けた。
「ええ。でも……帰るべき場所が荒らされていたら、この家に入った時、その人たちはどんな気持ちになるでしょうか」
呂布は黙って、食料を戻しに行った。だが帰って来た彼の持つ袋の中身は先程とあまり減っていなかったが。
「すまん、俺は大喰らいなのだ」
恥ずかしそうな呂布を見て、貂蝉は肩をすくめた。
「準備が出来たら、
現在、徐州の牧 陶謙は病の床にあり、劉備という男が仮に統治にあたっているという。漢の皇帝の流れを汲むと自称しているというが、その根拠は薄弱である。そもそも劉姓を持つものなど、それこそ掃いて捨てるほどいるのだから。
「剣を交えてみれば、信用できる男かどうかすぐに分かるのだがな」
得意げに呂布は馬上で胸をそらす。しかし、いつもながらこの男の言うことは信憑性が皆無だった。
「そういうものですかね」
どう思います、と貂蝉は張遼の方を見た。張遼も苦笑いするしかない。
「だってそうだろう。貂蝉も肌を合わせた数多くの男の事は、その身体が憶えているのではないかな。ぐふふ」
呂布がそう言った途端、うなりをあげ、貂蝉の槍が一閃する。次の瞬間、呂布の姿が馬上から消えた。
「おおう」
張遼は全身に鳥肌をたてて呻く。呂布は槍の石突で正確に急所を突かれ、白目を剥いて地上に転がっていた。
☆
「呂布将軍、このような者を捕らえました」
後方から部隊長が追って来た。いかにも神経質で胃腸が弱そうな、虚弱体質風の男を引き連れている。その服装からすると武人ではなく官僚のようである。
「なんだ、この男は」
「あの街に潜んでおったのです。曹操軍の密偵ではないでしょうか」
その男はびくっと背中を震わせた。
呂布は興味無さそうに背を向けた。
「そうか。ならば斬れ」
「待って下さい、私は曹操を見限って将軍に降ろうとする者です。必ずお役に立ちますから、どうぞ命だけは!」
貧弱な身体に似合わない大声でその男は叫んだ。
「これは、どうしたのですか」
馬を返してきた貂蝉は優しく問いかける。男は貂蝉を見上げて涙を浮かべた。
「おお。これは地獄の獄卒の中に天女を見たような心持です。どうぞ、この哀れな男をお救い下さい」
「あら。そうですか」
冷たい口調のままだが、貂蝉は頬を緩めた。まんざらでもないらしい。
「やかましい、誰がむさ苦しい獄卒だ。今すぐ本物に会わせてやろうか」
張遼が凄むと、男はひーっと悲鳴をあげた。
「ところで、あなた。お名前は?」
貂蝉に訊かれた男は膝をついたまま居住まいを正した。えへん、と咳払いする。
「私は東郡の
本当であれば曹操軍の内情を詳しく知る者という事になる。貂蝉と張遼は目配せし合った。揃って頷く。
「あなたを採用します、陳宮どの」
陳宮は、ほっとした様子で涙ぐんだ。
「曹操め、まさかこのような暴虐を働くとは。私はあのような軍に加わった事を後悔しているのです。現在はこんな事をしている場合ではない、長安は大変なことになっているというのに」
貂蝉の表情が変わった。馬を飛び下り、陳宮の前にしゃがみ込んだ。
「長安で、何が起きているのです。陛下はご無事なんですか」
「え、陛下?……ああ、献帝陛下ですか。それが……」
陳宮は困惑した表情だった。やっとこの軍団の妙なことに気付いた。この呂布よりも偉そうな美女は何者だ。朝廷の女官だったのだろうか。
「ええ。長安を占拠していた
ふらっと立上った貂蝉。その顔からは、すっかり血の気が引いていた。
「大丈夫か、貂蝉」
心配そうに呂布が顔を覗き込む。ぎこちない動きで彼の方を振り向いた貂蝉だったが、瞳からは普段の強い光が失われていた。その目蓋が力なく落ちた。
「……」
意識を失った貂蝉は膝から崩れ落ち、呂布の腕の中に倒れ込んだ。
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