第20話 僭称帝の末路

 後漢末、最も早く帝号を自称したのはこの袁術であろう。

 ただこの男の誤算は、漢王朝の衰退が明らかとなった現在、力のみで帝位に就くことが出来ると思い込んだ事だった。


 春秋戦国期から秦の統一を経て漢の末に至るこの世は、すでに士大夫の治めるところとなっている。

 易姓革命とも呼ばれる王朝交代には大義名分が必要だった。大義名分、そして相応の手続きを執った上で、この世紀の大事業は為されるべきなのである。

 自ら勝手に皇帝と称することを彼ら士大夫、つまり知識人層は全く支持しなかったのだ。

 袁術はただ一人孤立した。


 この男の絶頂期が何時であったのかは、よく分からない。目立った武功もなく、領土統治においても収奪以上の事をした形跡はない。よって、この皇帝即位をこの男の人生の絶頂とするのは比較的理解しやすい。


 その瞬間から袁術の転落が始まるからだ。


 ☆


「三公(司空・司徒・太尉)の位でさえ金で買える世の中だが、皇帝位も安くなったものだな」

 袁術に身を寄せた呂布だったが、指揮する部隊すら与えられず飼い殺しになっていた。

 これは呂布の様な危険な男を信用して兵を預けることなど出来ないが、かと言って敵になってもらうのも困る。そんな袁術の考えが反映された処遇に違いない。

 現状では、呂布と貂蝉はほとんど軟禁状態になっていると云っていい。


「王允さまは、ちゃんと皇帝陛下から任命されて司徒になったのです。訂正してください」

 床に胡坐をかいている呂布に貂蝉は釘をさす。


「それは知ってるさ。だが、何故あんな男を庇う。やつはお前のことを売女ばいただと言ったのだぞ」

「わたしは……」

 貂蝉は俯いた。

「仕方ありません。わたしはそう言われるだけの事をして来ました」


 呂布は貂蝉のあごに指先をかけ、自分の方を向かせる。

「前を見ろ、貂蝉。お前は自分の信じるものの為に生きてきたのだろう?」

「……」

「信義を貫くものを、俺は売女とは呼ばん。お前は、えーと。あれだ」

 そこで呂布は考え込んだ。


「そう、侠女きょうじょ。お前は侠女だ貂蝉」

「それも、あまりいい意味とは思えませんけど」

 貂蝉は苦笑した。

「すまん。俺はあまり難しい言葉を知らんのでな。許せ、ははは」

 呂布につられ、貂蝉も笑った。


 ☆


「ところで呂布」

 貂蝉が声を潜め、呂布に身を寄せた。

「なんだ」

 最近呂布は、貂蝉に呼び捨てにされると頬が緩むようになった。そういう嗜好が芽生えて来たようだ。


 思い詰めたような貂蝉の顔を見て、呂布は肩をすくめた。

「おいおい貂蝉、気持ちは分かるが今は我慢しろ。人目がある。だが、俺は何時でも準備万端なのだがな」

 そう言って貂蝉の手を自分の股間に導く。

「違うっ!」

 顔面を殴りつけられ、呂布は昏倒した。

「なぜこいつは、全然懲りないんだ」


「なんだよ。俺は人目があるから今は我慢しろと言っただけだ」

 涙目で鼻を押えて呂布は文句を言う。

「わたしは、そんなこと思っていません。で……その事ですけど」

 貂蝉は部屋の入り口に目を走らせた。


「最近、監視の人数が増えたように思いませんか」

「うむ。やはりあれは俺の重要性を鑑みて、使用人を増やしてくれたのだろう。有難いことだ。袁術さまさまだ」

 明るい声で呂布は言った。だが彼の表情は笑っていなかった。


「どうやら情勢が変わったようだ。そろそろ、逃げ出す潮時かもしれないな」

 貂蝉にしか聞こえない小声で、呂布は頷いた。

「ええ。ですがわたしは一つ済ませておきたい事があります」

 冷ややかな目で貂蝉は呂布を見た。ごくりと呂布は唾を呑み込んだ。


「そうか。……やっと俺の童貞をもらってくれる気になったか、貂蝉」

 服を脱ぎながら立ち上った呂布は、また顔面から白煙を上げ床に沈んだ。

「誰が童貞ですか。あなた、奥さんが居た筈ですよね!」

 貂蝉は赤くなった拳に息を吹きかける。

「うう、忘れてた」


 ☆


 宮女の服装に着替えた貂蝉は、宵闇にまぎれ窓から抜け出した。

 彼女が目指すは袁術の寝所だった。


 ねっとりと纏わりつくような、淫靡な香の煙が廊下にまで漂っていた。媚薬の成分が含まれているのがその匂いで分かる。これは聶隠じょういんの教育の賜物だった。おそらく室内に充満した香は、不用意に吸い込めば正気を失うほどの濃度だと想像がついたが、もちろん貂蝉はその耐性も身につけている。


 途中、武装した衛兵に誰何すいかされたが、貂蝉が扇から少しだけ顔を見せ、袁術さまのお呼びなのだと答えると、黙って通された。

 おそらく、いつもの事なのだろう。

「せいぜい、壊されないようにするんだな」

 同情と好奇心の混じった目で、衛兵は貂蝉を見送った。


 揺れる灯芯によってぼんやりと室内は照らされている。

 袁術は寝台に上り、五人もの全裸の女に奉仕させていた。そして組み敷いているのはまだ幼い少年だった。

「もう、いつもその子ばかり」

 女たちが焦点の定まらない目で袁術にしなだれかかる。

「妾にも下さいませ」「こちらにも」


「まあ、待て。いつかは本物の劉協をこうして犯すのが儂の望みだと言っているだろう。これはその予行演習ではないか」

「ひどい。だったら妾も皇帝になりたい」

「間もなく長安へ向けて出兵する。その時は漢の皇帝と一緒に愉しもうぞ」

 女たちは揃って嬌声をあげる。


 室内に入って来た貂蝉に気付いた袁術は訝し気に顔を向けた。だがその瞳は媚薬の煙に濁っていた。

「呂布と一緒にいた者か。貴様、やはり女だったのだな……それに顔の傷も無いではないか。ほう、なかなか美しいな」

 どろりとした好色な視線が貂蝉に絡みつく。

「よいぞ。こっちへ来い」


 音もなく袁術に接近する貂蝉。そのまま袖口に仕込んだ短剣を抜く。刀身が灯火を鈍く反射した。

 その一瞬、袁術の眸が正気を取り戻した。

「き、貴様。何をする」

 袁術は左側にいた女を貂蝉めがけて突き飛ばした。それを躱そうとした貂蝉だったが、女は抱きつくようにぶつかってきた。


「邪魔をするな!」

 一緒に倒れ込みざま、貂蝉は手にした短剣を投擲げた。袁術の胸を狙ったその短剣は腕を女に抑え込まれ、わずかに下方にそれた。


「ぐおううっ」

 袁術が咆哮をあげた。下腹部を押えた袁術の両手が鮮血に染まる。

 貂蝉の剣は、露出した袁術の逸物を半ばまで切断し、寝台に突き刺さっていた。


「儂の……儂のモノがっ。衛兵、衛兵は何をしている!!」

 血を吐くようなうめき声で護衛を呼び寄せる袁術。舌打ちした貂蝉は窓を押し開き、中庭へ飛び出した。




 部屋へ戻った貂蝉は、床に敷物を敷いて寝ていた呂布を叩き起こす。

「逃げますよ、呂布」

 貂蝉は自分用の行李を掴むと、厩へ向け駆け出す。呂布は目を擦りながらその後を追った。



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