第19話 餓鬼の王、袁術

 貂蝉と呂布は間一髪のところで長安を脱出することに成功した。十人ほどの小部隊が彼らに気付いて騎馬で追いすがって来たが、所詮、呂布の敵ではなかった。

 方天戟の一閃で瞬時に半数を失った追手は、形ばかりの追撃を行いながら、徐々に遅れるように遠ざかっていった。


「どこへ向かうのです、呂布」

 貂蝉に呼び掛けられた呂布は、馬上で振り返り眉をしかめた。この小娘は段々と態度が大きくなって来るな。そう口の中で呟く。

「まあ、それも嫌いじゃないが」

「何か言いましたか」

 横に馬を並べた貂蝉は怪訝そうに問いかけた。


「いや何も、お姫様。これから南陽の袁術えんじゅつのところへ向かおうと思う」

 袁術は長江沿岸にその勢力を伸ばし、荊州の劉表、徐州の陶謙らと小競り合いを繰り返している。今回の反董卓連合には加わったが、自ら出陣せず、部将の孫堅を送り込んでいる。そして孫堅は世に知られるほどの活躍を見せた。

「袁術はその孫堅を牽制したいと思っている筈だからな」


 更にいえば、劉表や陶謙はすでに老い、領域を保つ以上の野心を持たない。そこに呂布が赴いても邪魔ものでしかない。


「曹操はどうでしょう」

 貂蝉の言葉に呂布は馬を止めた。何気ない一言だったが、その反応は大きかった。呂布は満面の笑顔で、獰猛に牙を剥いている。

「なるほど、曹操か」

 曹操、曹操。呂布は繰り返した。


「やつは何時いつか、この手で倒す」


 ☆


 遠ざかる長安を何度も振り返る貂蝉を、呂布は不思議そうに見た。

「何だ。忘れ物か」

「ええ」

 からかうような口調の呂布に貂蝉は短く答えた。

「わたしは、長安を離れるべきではなかったかもしれない」


 呂布は手にした戟の柄で自分の肩を叩く。

「お前は王允の身内ではないか。必ず捜し出して、惨殺されるだろう。脱出して正解だ」


 世間では董卓を殺害したのは呂布だと思われている。しかし、董卓の使用人達から話を聞いたならば、すぐに貂蝉が真犯人だと分かる筈だ。

「あの李傕たちがどれだけ本気で下手人を探そうとするかは分からないが、少なくとも王允の屋敷に居た者は皆殺しだろう」


聶隠じょういんさまは無事だろうか」

 ぽつりと呟いた貂蝉。それを聞いた呂布は鼻を鳴らした。

「あの女中頭……というか家宰のような女か。あれはただ者ではない」

 呂布はぞくっ、と肩をすくめた。


「あの女を殺すのは俺でも無理だ。あれは死神の化身じゃないのか」

「やはり、そう思いますか」

 優しく妖艶でありながら、常に冷ややかな空気を纏った女性だった。彼女も明らかに多くの命を奪って来たのだと今更ながらに実感した。

「だからあの女の心配はいらない、と俺は思う」


 ☆


 袁術の本拠地、南陽に入った貂蝉と呂布は目を疑った。

 肥沃な土地により食料生産は江東地方でも屈指、更には交易によって豊かな富を蓄える天賦の地と伝えられた南陽の市街は、見る影もなく寂れていた。

 壊れたままの扉から、無気力な目をした土気色の顔がのぞき、街道を行く貂蝉と呂布を見ている。明らかに餓死寸前の住民が其処彼処に倒れ伏していた。


「どういう事だ、これは」

 周囲に漂う嘔吐を誘う臭いに呂布は鼻を押えた。見れば物陰には鴉や野犬に食い散らかされた死骸が転がっている。鼻を衝く腐臭はそこから発生していた。


「……もう差し出すものは、何もありません、勘弁してください……」

 弱々しい懇願の声がする。扉も窓もない家の前にうずくまった男が、焦点の定まらない目で訴えている。呂布たちを袁術の家臣と誤解しているのかもしれない。

 貂蝉と呂布は小走りでその場を通り過ぎた。


 ぐちゃり、ぐちゃりと何かを咀嚼する音がする。一軒の家の中では、痩せこけて男女の別さえつかない者たちが何か白い棒の様なものに齧り付いていた。その先端には五本の指がついていた。

「お、おえっ」

 ついに貂蝉は蹲り、激しく嘔吐し始めた。

 彼らが喰らっているのは人の腕、それも子供のものと思われる小さなものだった。ある史書には『子を持つ者は他人の子と交換し、それをむさぼり喰った』とまで記されている。


「ここは地獄か」

 呂布は青い顔で吐き捨てた。


 ☆


 南陽城内に招き入れられた貂蝉と呂布だったが、彼らに座は与えられなかった。冷たい床に膝をつき袁術を待つ。

 貂蝉はそっと室内に目を走らせた。豪奢な装飾に満ちた、まさに謁見の間である。長安の朝廷でさえこれ程ではないだろう。ここに至るまでに、華やかな装いの女官たちが脂粉の香りを残し行き交っているのも見た。


 やがて、どこか軽躁な楽の音が奏される中、小太りの男が現れた。

「呂布ではないか。なぜこんな所にいる」

 姿を見せるなり、袁術は嘲るように言った。肥満した身体を揺らしながら袁術は”玉座”についた。

 肌艶もよく、顎もたるみが出来るほど栄養に満ちた袁術の姿を見て貂蝉は怒りに身体を震わせた。『徴税』と言葉を取り繕うのも愚かしい。

 この男は、軍隊による組織的な略奪を領民に対し行っているのだった。


「丁原に続き、董卓に仕えたお主が、今度は儂の配下になりたいと云うのか」

 皮肉な笑みを浮かべた袁術は、爬虫類のような目で二人を見下ろした。


「微力ながら、閣下の力になりたいと存ずる」

 殊勝に呂布は頭を下げた。

「そっちは何だ。顔を見せぬか」

 袁術は貂蝉を見た。彼女は男の格好をし、顔は半分まで布で隠していた。体格からすると少女のようにも見える少年。袁術の目が好色に細められた。豚の啼き声のような音が、興奮した袁術の喉から漏れた。


「これは我が一族の者でござる。顔に酷い傷を負っておるのでお許し頂きたい」

「構わぬ、見せよ」

 袁術は立ち上がり、貂蝉の前に立った。

「どうか、それだけは」

 低い声で言った貂蝉は目を伏せ、伸ばした袁術の手を避けるように後ずさった。


「ふん、いよいよ怪しい」

 強引に貂蝉の顔に巻いた布を引き下ろした袁術は、うぐっ、と息を呑んだ。

 本来は端正な顔なのだろう。しかし、醜い傷が頬から顎にかけて走り、血と膿汁が滲んでいる。

 袁術は慌てて離れると、手を拭った。

「き、汚らしい」


「まあよい、しばらく滞在するがいい。食事くらいは食わせてやる」

 ばたばたと足音をたて、袁術は退室していった。


「しかし、その傷は。まるで本物のようだな」

 呂布は小声で言った。

「この化粧は聶隠さまに教えていただきました」


 貂蝉は感情の無い声で答え、袁術の出て行った方をずっと見詰めていた。



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