第16話 貂蝉、董卓と対面する

 董卓とその配下の軍が帰還して、長安には再び血の匂いが満ちた。

 みずから信任した袁紹らの挙兵により、董卓はその猜疑心を募らせる。長安市中に密告制度を敷き、叛逆の芽を摘むことに躍起になった。


 訴えられた者は取調べもなく処刑され、その罪は一族すべてに及んだ。そのため、家族内ですら誰もが互いの様子を伺い、隙あらば密告しようと目を血走らせていた。密告すれば自分だけは罪を免れる事ができるからだ。


 曹操を追い詰めながら軍を引いた将軍徐栄も処刑された。そしてそれ以上に、反逆の疑いをかけられた朝臣や市民が、衆人環視の中、連日のように処刑され、石畳の血が洗い流されるいとまはなかった。


 武装兵による略奪、暴行も急増し、鍾繇らの治安維持への努力も水の泡となった。

 董卓は子飼いの兵士達の悪行には寛容だった。彼らは謀反の企てが有るとして、祭りに集まった住民を虐殺した事さえある。積み上げられた首を見て董卓は満足げに笑い褒賞を与えたという。


 この頃、董卓は太師たいしの位に就き尚父しょうほと称するようになった。これは古代、周の功臣である軍師 太公望呂尚へ特別に与えられた称号である。太師は三公の上に位置し、まさに董卓は位人身を極めたと言ってよかった。



「ああ、血生臭い」

 朝廷から自宅へ戻った王允は袖口や服の裾を嗅いでは嘆息している。

「宮中も市場も、血の匂いが絶えることがないわ。おぞましい」

 そして部屋の隅に控える貂蝉を厭わし気な顔で見た。ここにもその原因がいたか、口に出さずとも、王允の目はそう言っていた。

「今日はもう用はない。下がれ」

 貂蝉は追い払われるように部屋を出た。



 廊下を進んでいくと、貂蝉は部屋の前にひとりの男が佇んでいるのに気付いた。

「何をしている、呂布どの?」

 貂蝉の声に振り向いた呂布の額には布が巻かれていた。少し血が滲んでいる。


「それは怪我をされたのか」

「まあ、大した事ではない」

 そう言いながら呂布は、どこか翳りのある笑顔を見せた。


「そう言う貂蝉こそ元気がないではないか。どうした、腹が減ったのか」

 普段はまったく笑顔など見せない貂蝉だったが、あきれたように苦笑いを浮かべる。


「あなたと一緒にされては困る。そうじゃない……」

 しばらく貂蝉は言い淀んだ。

「王允さまの為に、わたしは人に言えない事をしてきた。でも、それはただの道具として、くらいにしか思われていないのだろう」

 俯いた貂蝉を、呂布はその太い腕で抱き寄せた。

「あの、呂布どの」

 戸惑う貂蝉に、呂布は両腕に力を込めた。

「よく分からないが、どうやら俺もちょうどいま、そんな気持ちかもしれない」



「貂蝉、董太師がお呼びなのだ。俺と一緒に来てくれ」

 しばらく抱き合った後、呂布は押えた声で言う。貂蝉は顔をあげた。

「お前を太師付きの宮女にとの考えらしい」


 王允によって貂蝉は宮中へ送り込まれ、何度か董卓の身辺まで近づく事ができていた。ついに董卓の目に留まったということだろう。

 これで目的を果たす機会が近づいた。貂蝉は胸の高鳴りを覚えた。ふと見ると呂布の表情は暗いままだ。

「呂布どの」


「まさかその傷は」

 やはり董卓の命令を受けたときのものだった。

「その時のおれの態度が気に食わなかったのだろう。げきの柄で殴られたのだ。まあよくある事だ」

「呂布どのは董卓さまの養子になられたとか聞きましたが」

 丁原を葬った功績で、親子の契りを結んだのだという。


「心配しなくても貂蝉の事は話していない」

 おそらく呂布は董卓暗殺という彼女の目的を察しているのだろう。

「貂蝉の下僕でもある俺としては、立場が難しいところだ」

 自嘲気味に呟いた呂布は、貂蝉の頭をぽんぽんと叩いた。


 ☆


 呂布に先導され貂蝉は董卓の居室に入った。そこは外からの視界を遮るため窓が深紅の布で覆われている。濃い血の色に染まったような室内に入ると、猛獣に呑み込まれたような錯覚を起こした。


「連れて参りました、太師」

 声を掛けられ、董卓は竹簡から顔をあげた。その双眸が不気味な赤光を放つ。椅子からゆっくりと立上ると、部屋が狭くなった程の威圧感が貂蝉を襲った。

 膝が震え出すのを、貂蝉は抑えられなかった。


「王允の娘だそうだな。何故そんなに怯える」

 董卓の視線は貂蝉の身体を舐めまわし、彼女の心の内まで探るように執拗に絡みついた。

 ここで怪しまれる訳にはいかない。貂蝉は必死に呼吸を整えた。

「このような場所に、慣れておりません」


 くくっ、と董卓は嗤った。

「いいだろう、まず湯浴ゆあみをせよ。そして用意した着物に着替えるのだ」

 貂蝉は呂布に視線を走らせた。しかし呂布は素知らぬ顔で佇立している。袖口に仕込んだ短剣に気付かれたのであれば万事休す、である。


 董卓の視線を辿ると隣室に据えられた天蓋付きの巨大な寝台が目に入った。

「後で存分に愉しませてやる。それまで無粋な真似はせぬ方が良いぞ、小娘」

 猛獣の爪が喉にかかったような気がした。

 小さく貂蝉は頷いた。 


 ☆


 着替えさせられたのは宮女用の官服だった。それも相当に上質な素材であると分かる。これから犯されようとする女に似つかわしいものではない。


「これは」

 意外そうな貂蝉を見て董卓は分厚い唇の端を上げた。

「劉協に会わせてやる」

 

「皇帝陛下に?」 

 貂蝉の顔色が変わった。


 献帝 劉協。


 それは貂蝉がこれまで殺人に手を染めて来た本当の理由。彼女が本当に守りたいものはこの少年だった。


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