第13話 汜水関の戦い

 袁紹はその三人の姿を改めて眺めてみる。劉備はともかく、義弟だという関羽と張飛はただならぬ雰囲気を纏っている。なるほど、これは我が陣営の猛将、顔良がんりょう文醜ぶんしゅうにも劣らないのではないか、袁紹は思い直した。


「よかろう。そこまで言うなら腕前を見せてみよ」

 関羽は一礼し、さっと騎乗した。その姿はまさに威風堂々、大将軍の風格さえ伺える。関羽はゆっくりと、袁紹陣営が築いた防柵の前まで馬を進めた。


 何事かと、他の諸侯からも見物人が集まって来る。対する華雄の陣でもその動きを知り騎馬部隊が展開を始めた。折からの風に砂塵が舞い、一触即発の機運が高まっていく。

「関羽よ、これは私からのはなむけだ。飲み干してから行くがいい」

 まるで軍神のごとき関羽の姿に感動した袁紹は、涙ぐみながら一杯の盃を関羽に与えた。それをじろりと睨んだ関羽は黙って受け取る。


「の、のう関羽。それは後からにした方が良くはないか」

 なぜか劉備は不安げにその酒盃を見ている。

「何を言う、兄者。これは我らが出陣に際し天から授かった美禄びろくに違いない。いざ、天神地祇もご照覧あれ!」

 関羽はそれを高々と掲げたあと一息に飲み干した。

 あああ、劉備が小さく悲鳴をあげた。


「ふふ。では、行ってまいるぞ……。おやおや?」

 突然、関羽の上体がゆらゆらと揺れ始める。そのまま関羽は馬上から転げ落ちた。

「な、なにっ?」

 袁紹と劉備、張飛は慌てて関羽に駆け寄った。


「しっかりせい、関羽!」「関兄!」

 だが関羽の返事はない。

「ど、どうしたのだ、これは。まさか誰ぞ酒に毒を盛ったのか。い、いや、私ではない。私は知らんからな」

 劉備と張飛に睨まれ、袁紹はすっかり蒼ざめている。


「いや、そうではございません、閣下」

 申し訳なさそうに劉備は頭を掻いた。関羽は真っ赤な顔で大いびきをかいていた。

「関羽はめっぽう酒に弱いので、制止したのですが」


「それでは仕方あるまい、おれが代わりに行って来よう」

 吼えるような大声で張飛が立ち上がる。それを袁紹は、胡散臭そうな顔で見上げた。

「まあ、張飛も関羽に見劣りはしませんから」

 劉備もそれは保証する。

「そ、そうか。よし、この張飛に酒をもて」

「え?」


「の、のう張飛。お前もそれは後にした方が良くないか」

 やはりなぜか劉備は不安げだ。

「何を言う、兄者。そこに酒がある限り、おれは決して逃げたりはせぬ」

 張飛はその大杯をひと息に飲み干した。

「ぐふーっ。これは堪えられん」


「おい、そこの袁紹。もう一杯持ってこい」

 完全に据わった目で張飛は袁紹に絡みはじめた。その狂暴な視線に怯えた袁紹は大樽を持って来させる。

「そうそう、こうやって素直に出せばいいのだ。なにしろ酒は天下の回り物というからな。おう、よく効くなこの酒は。……ひっく」

 ぐわははは、と豪快に笑う張飛。


「り、劉備。こいつを何とかせい」

 張飛の太い腕で首根っこを抱えられ、袁紹は劉備に助けを求めた。

「だから止めろと言ったのです。張飛は酒乱で、酔うと手が付けられないのです」

「最初に言え、そんな大事なことはっ!」



 華雄の軍もその様子を遠望し、爆笑している。

「こんな所で笑劇を見られるとは思わなかったぞ」

 主将の華雄も笑いをこらえていたが、やがていつもの鷹が獲物を狙う表情に戻った。右手を高く振り上げ、号令した。

「あの大根役者どもに、死という投げ銭をくれてやれ!」

 思いがけない展開に油断しきった袁紹陣営へ、董卓軍は襲い掛かる。慌てて応戦にでた袁紹軍はひとたまりもなく蹴散らされていった。


 匈奴兵も混じった強悍な西涼の騎馬隊を率い、無人の野を行く勢いの華雄を、横合いから強襲した一団があった。

 思わぬ攻撃に陣形を崩され、華雄の動きが止まった。


 華雄の視界の片隅を赤い光が駆け抜ける。それは敵の主将が被っている、さくとよばれる赤い頭巾の色だった。

「あんな目立つものを……舐めているのか」

 しかし『孫』の旗を掲げたその精悍な軍団は、統制のとれた動きで、たちまち前衛部隊を蹴散らし華雄に迫ってきた。


「こいつめ。早いっ!」

 孫軍の速攻に守備陣形の立て直しをおこなう隙がない。彗星のごとく赤い残影をのこし、精鋭で固めたはずの親衛軍さえ易々と切り裂いて行く。


 華雄の前に、その赤い幘の武将が立ち塞がった。

 彼の鋭い槍さばきに華雄は耐え切れず後退する。だがその時にはすでに華雄は敵騎兵に取り囲まれていた。


「名乗れ。貴様は何者だ小僧!」

「死者に聞かせる名はない」

 その武将は短く答えた。


「おのれ!」

 吼えた華雄は騎馬を突進させる。すれ違いざま、この赤い幘の男が持つ剛槍は華雄の胸を刺し貫いていた。


 この汜水関の戦い(陽人ようじんの戦いとも)において華雄を討ち、連合軍最大の戦功を挙げたこの男。

 孫堅そんけん字を文台という。

 袁術に属し、黄巾賊討伐にも大きな功績をあげた。彼はやがて江南地方に本拠を構え、一大勢力を築き上げることになる。

 のちに『江東の小覇王』とよばれる孫策、そして三国鼎立時の『呉国皇帝』孫権の父である。


 ☆


「うう、頭が痛い」

 二日酔いの義弟ふたりを連れ、劉備は南へ向かっていた。戦勝に沸く袁紹陣営だったが、当然この三人は追放された。

「どこへ行くのだ、兄者」

 普段の赤ら顔がすっかり蒼白になった関羽が弱々しい声で訊く。

酸棗さんそうには曹操という男がいるらしい。そこを訪ねてみろと袁紹どのに勧められたのだ。多分、私たちと気が合うのではないかとな」

 あきらかに厄介払い以外の何物でも無かったが。


「そこにも美味い酒があるといいな、なあ関兄!」

 酒臭い息を吐きながら張飛が関羽の肩を叩く。

「寄るな。わしはもう酒という言葉だけで懲り懲りだ」

 そんな二人をみながら、劉備はにこやかに馬を進める。


 曹操が布陣する酸棗の前に立ちはだかるのは、難攻不落といわれる虎牢関。そしてその守将は当代随一の猛将、呂布である。


 戦線は膠着状態となっていた。





 ※三国志演義では関羽が一刀のもと華雄を討ち取っていますが、正史では華雄を討ったのは孫堅と記されています。

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