第10話 風は洛陽へ向かう

 丁原を葬り去った董卓に対抗できる者は、もはや洛陽にいなかった。戟を携えた呂布を従え傲然と歩を進める彼に出会うと、誰もが道を譲り、片隅に身を屈めた。


 少帝を廃し陳留王 劉協を新帝に擁立するという董卓の提案は、何の反対もなく決議され、弘農王こうのうおうとなった少帝 劉辨りゅうべんは即刻居所を遷される。だが弘農王とその母、何太后が共に配流先で病死したと伝えられたのは、それから間もなくだった。


「あれは毒殺されたのだ。首謀者はおそらく李儒であろう」

 王允は青ざめた顔で貂蝉に語った。

「このままでは、いずれわしも、に違いない」


 後の世には董卓の暴政ばかりが伝えられている。しかし意外にも董卓は朝臣の意見を容れ、当時の名士と呼ばれる士大夫たちを多く登用していた。

 学者の蔡邕さいようもその一人である。彼は班固が記した『漢書』に続く史書を編纂していることで有名である。

 ところでこの歴史書というものは権力者にとって諸刃の剣である。自らの業績と共に、失政・悪行もすべて記録されてしまう。董卓がこの事業を許したのは寛容からであったのか、それとも単に歴史に関する理解が無かった為かは分からない。


 後の事になるが、王允が董卓を排除した後、真っ先に行ったのはこの蔡邕の処刑だった。暴君、董卓に協力したというのがその理由だ。

 史書の完成まで刑執行の猶予を乞う蔡邕を、王允は容赦なく斬刑に処した。


「武帝の轍を踏む訳にはいかぬ」

 その時に王允が発した言葉である。漢の武帝は将軍 李陵の処遇について諫めた史家の司馬遷を、宮刑(男根を切除する刑罰・腐刑ともいう)により宦官に貶したが、司馬遷が密かに書き遺した歴史書『史記』によってその過誤を後世にまで伝えられてしまったからだという。


 ☆


「あれは見かけに依らず、ちいさい男だからね」

 少帝の急逝に怯える王允を聶隠じょういんは嗤った。普段は剛毅さを装っている王允だけに、身も世もなく取り乱した姿はあまりにもみっともなかった。

 彼女は形のいい唇でお茶を一口すする。

 特殊な薬草から淹れたお茶からは妖しい香りが立ち昇っている。


「そうでしょうか。わたしには普通の大きさくらいに思えました」

 貂蝉は記憶をたどるように、少し目を細める。

 ぶふっ、と聶隠は口の中のお茶を吹いた。

「違うよ貂蝉。男の、その……がじゃなくて人としての器が、だ」

 目を瞠った貂蝉は、頬を少し赤らめた。

「あ。やだ恥ずかしい。聶隠さまのお話振りから、もうあれの事だとばかり」

「わたしをどんな女だと思っているの、貂蝉は」


 聶隠は濡れた瞳で、落ち着かない様子の貂蝉を見る。

「そろそろ効いてきたようだね」

 二人が飲んでいたお茶は強力な媚薬成分を含んでいる。ちょっとした会話がすべて性的な意味に聞こえるものその影響といっていいだろう。

「では服を脱ぎなさい、貂蝉」


 裸身になった二人は寝台にあがった。

「今日は自然死に見せかけて男を殺す方法を伝授しましょう」

「はい、ありがとうございます。聶隠さま」


 蒼白い月の光が寝室に差し込んできた。


 ☆


 董卓の軍団によって占拠された洛陽だったが、年来の旱魃による不作に加え、黄巾の乱による兵糧供出によって備蓄食料は底をつき始めていた。

 貧困層の市場においては人肉が流通し始めている。餓死したもの、病死したもの。あるいは食肉用として殺されたものもあるだろう。混乱の洛陽市街においては供給源は豊富だった。


「近郊の州には、まだ食料があるだろう」

 董卓の配下である李傕、郭汜たちは手勢を引き連れ、豫州や荊州方面の略奪に向かっていた。手元に無ければ他から奪うのが彼らのやり方だった。


「気に食わん。狡猾な漢人どもめ」

 陰鬱な顔で董卓は唸った。

 相国(宰相)となり、位人身を極めたといっていい董卓だが、その表情が晴れないのは、不足する食料だけが原因ではなかった。朝臣の勧めにより各地の太守に任じた袁紹ら有力者が、揃って董卓に対し叛旗を翻したのだ。

 いまも大軍が洛陽めがけて進軍中との報が入っていた。


「ですが袁紹ごときを盟主とする連中に何ができましょう」

 ひっそりと李儒が進言した。相変わらずその表情からは何の感情も伺えない。

「奴らの目的はただひとつ」

 李儒はそっと後宮の方に目をやった。


「ああ、劉協か」

 そこには一人の少年がいた。新皇帝、劉協。後の献帝である。

 董卓は微かに侮蔑の表情を浮かべた。あの年端もいかぬ少年にそんな価値を与えたのは他ならぬ自分であると董卓は思った。


「あの少年を手にしたものが、天下に号令する事となりましょう。……これは失礼。もしそれが出来れば、の話でございます」

「お前にしては珍しい軽口だな、李儒」

「恐れ入ります」

 鋭い眼光に射竦められ、李儒は頭を下げた。


 董卓は拡げた地図に目をやった。北は冀州から南は揚州まで、洛陽を囲むように叛乱勢力の名が書き込まれている。

「腑抜けどもが何人集まろうと塵埃のようなものだ。ひとたび風が吹けば、みな霧散するだろう。特にこの名門の末裔すえに安住する袁紹、袁術など羊の糞にも劣る」

 董卓は吐き捨てるように言った。


「うむ?」

 太守や刺史の名が並ぶ中、董卓の目がある名前の上に止まった。そこにはこう記されていた。


『奮武将軍 曹操』


「これは宦官 張譲の縁者を叩き殺した奴ではないか。少しは骨があると見るべきか、あるいはただ無鉄砲な愚か者か」

 人物鑑定で名高い許劭から『治世の能臣、乱世の奸雄』と評されたという噂は、董卓も伝え聞いていた。

「この曹操と云う男は、一度こちらからの招聘を断っております」

「そうだったな」


 董卓は分厚い唇の端を吊り上げた。

「よかろう。戦場で会うのが楽しみだ」


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