第9話 血塗れの貂蝉
丁原の居室に向かう呂布の背中を見ながら、貂蝉はひっそりと後に続いた。
(この男は裏切るだろうか)
その疑いは捨てきれない。丁原に接触する事はおろか、このまま捕らえられることも充分考えられた。
「いまのところ武装兵が潜んでいる様子はない、か」
「ああ? 何か言ったか」
緊張感のない表情で呂布が振り返った。貂蝉は小さく首を横に振った。
貂蝉と呂布は屋敷の一番奥にある部屋の前に立っていた。
「丁原の居室はここだ」
その扉の奥からは、女の悲鳴と喘ぎ声が聞こえている。貂蝉は呂布を見上げた。
苦笑した呂布は肩を竦めた。
「いつもの事だ。……特に最近はな」
☆
「呂布か。構わん、入れ」
息を荒くした丁原の声に応じ、二人は部屋に入った。
中に漂う淫臭に貂蝉は思わず眉を
丁原の執務卓には、胸元をはだけ上半身を顕わにした若い女が突っ伏していた。身なりからすると後宮に務める女官だ。後ろから男に突かれる度、その豊満な乳房が揺れた。
宦官を駆逐した軍閥の将兵が、後宮の女性たちに狼藉を働いているという事実は洛陽城下でもよく知られている。彼女もまた丁原によって拐われたのだろう。
やがて大きく息を吐いた丁原は、ぐったりとした女を卓から押しのける。女は力なく床に倒れ込んだ。
「その娘は何だ、呂布」
丁原は呂布の後ろに立つ貂蝉に気付いた。
「話があるようなので、連れて来た」
ほう、丁原の目が好色そうに細められた。舐めるような視線が、ねっとりと彼女の全身に絡みついた。ふと思い出したように、その目が床に倒れ伏す宮女を見下ろす。
「……おい、だれかこの女を片付けろ」
宮女が連れ出されていくのを横目で見ながら、貂蝉は一歩前に出た。
「司徒 王允の娘、貂蝉と申します」
鋭い眸で丁原を見据えたまま、軽く頭を下げる。
「ほう、王允の娘御か。で、何の用かな」
丁原はどっかりと椅子に腰を下ろす。おそらく王允は自分を味方に付けたいと考えているのだろう、丁原はそう思った。つまりこの少女は生贄という訳だ。丁原は想像のなかで彼女を裸に剥いている。
肉付きの薄い細身だが、こういうのも決して嫌いではない。何よりあの冷たく取り澄ました顔を悦楽に歪ませてみたい。
たったいま宮女を犯したばかりの丁原は、また欲望が昂進するのを覚えた。
「丁原さまに伺いたい事がございます」
その美貌に劣らず冷ややかな声で貂蝉は切り出した。
「……言ってみろ」
丁原は唾を呑み込む。興奮のあまり喉がからからに乾いていた。一刻も早くこの美麗な獲物を床に組み敷き、思う存分犯したい。丁原は我知らず腰を浮かせていた。
「陳留王さまを殺そうとなさっているのは、本当でしょうか」
思いもよらぬ問いに丁原は耳を疑った。
「はあっ?」
このわしがなぜ陳留王を殺さねばならん。だが丁原はすぐに考え直した。董卓によって擁立される前に、その元凶を消すというのだ。
この非常の際であればこそ許される、またとない妙案に思えた。
「それも悪くない」
これぞまさに天啓。そう言葉に出してしまった。
「これ以上董卓の専横を許す訳にはいかぬ。それに皇室は長子相続が原則である」
「だから、弑すると……」
貂蝉の眸が憂いに曇った。
「董卓から権力に繋がる武器を取り上げるだけの事。これはおそらく王允どのも同意であろう。現にこうやってそなたを送り込んで来たのだからな」
あたかも自分が最初から考えていた事のように丁原は喋り続けた。
その間、貂蝉はそっと部屋の中を見渡した。丁原の剣は彼の背後の壁に立て掛けてある。距離にして数歩。あれを手にされては勝負にならない。
丁原は立ち上がると、いかに自らが正義であるかを滔々と語る。語りつつ歩き回り、貂蝉の前までやって来た。
欲望の狂気に血走った目で彼女の顔を覗き込む。
「では王允からの伝言がございます」
そう言うと貂蝉はさらに間合いを詰め、丁原の耳朶に唇を寄せた。ふわりと漂う少女の香りに相好を崩した丁原は、それを疑う様子もない。
「丁原……。漢王朝に仇なす奸賊」
甘美なまでの死刑宣告が丁原の鼓膜を震わせた。
貂蝉は左の袖口に隠した短剣を抜き、丁原の頸動脈を一気に切断した。そして噴き上がる血飛沫を避けるため身体を翻す。
だが貂蝉のその手を丁原が掴んだ。血まみれで悪鬼のような顔になった丁原は恐るべき力で彼女を引き寄せる。傷口を押えた右手の指の間から鮮血が飛び散って貂蝉の顔を紅色に汚した。
「呂布、呂布。この女を斬れ!」
瀕死の重傷とは思えない声で、信頼する部下に声を掛ける。
「何をしている、早く斬るのだ、呂布っ!」
背後から呂布が近づく気配がする。すらりと剣が抜き放たれたのが音で分かった。殺気が部屋に満ちた。
(まさか呂布。ここで……)
わたしは、ここで裏切られるのか。
貂蝉は引き攣った顔で振り返る。呂布は剣を振りかぶり、彼女を見てにやりと笑った。
唸りをあげ、呂布の剣が振り下ろされる。思わず貂蝉は目を閉じた。
耳元で骨を断ち切る音がした。
何かが床に落ち転がった際の振動が、貂蝉の脚に伝わった。
「ぐっ!」
急に丁原の身体が重くなり、貂蝉にのしかかってきた。目をあけると貂蝉の視界は紅く染まっていた。
貂蝉が2、3歩退がると、首の無い丁原の身体はずるずると床に
「詰めが甘いな」
何事も無かったように呂布が嘯いた。
「この功績はおれがいただく事にする。悪く思うなよ」
呂布は丁原の首を手に、部屋を出て行った。
☆
「幷州の刺史、丁原は漢の皇室に反逆を企んでいた。よって董卓さまの命により、この呂布が誅殺したぞ!!」
茫然と座り込む貂蝉の耳に、呂布の得意げな声が響いた。どうやら呂布も丁原を狙っていたらしい。
「それでもいい。目的は果たした」
貂蝉の血塗られた頬に涙が伝った。
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