第8話 たとえ悪名を残すとも

「おれには、お前と決闘する理由が思いつかない」

 呂布は眉を寄せ首をかしげた。その表情はやはりどこか幼く見えた。

 しばらく意味もなく辺りを見回していた彼は諦めたように、貂蝉の手を引いて屋敷の門をくぐった。いずれにせよ、このまま大通りに立ち尽くしている訳にはいかなかった。


 屋敷の庭は小部隊同士であれば演習が行える程の広さがあったが、呂布はそこも通り抜けていく。

「どこへ行くのですか」

 うむ。呂布は曖昧に頷いた。


 屋敷の一角には周囲からの視線を避けるように、竹林に囲まれた小亭あずまやがあった。呂布はそこに置かれた椅子に腰かけた。貂蝉にも座るよう促す。

「すまないが、茶は出せん。許せよ」

「そんなつもりで来たのではありません」

 まったく怖じた様子の無い貂蝉を見て呂布はさらに困惑した。荒事とは無縁そうな、ほっそりとした身体を何度も見返した。


「おれを倒してどうする。おれの代わりに丁原の護衛に雇ってもらうのか?」

 真面目に言う呂布の顔を見て貂蝉はくすっと笑った。

「おお。やっと笑ったな」

 呂布もつられて、朗らかな笑顔をみせた。


「わたしが勝ったときには、呂布さま」

 貂蝉はしなやかな動きで席を立つ。唇の端にはまだ笑みが残ったままだった。


「あなたには、わたしの従僕になっていただきます」

 あっけにとられた呂布の顔を、貂蝉はびしっと指差した。


「あ、ああ。それは……構わないが」

 呂布もそう答えざるを得なかった。


 ☆


「勝敗は文字通り、相手を倒したときとします」

 つまり地面に倒れたら敗けである。

「なんだ、そうか」

 考え込んでいた呂布はそこで表情を蕩けさせた。貂蝉の意図を理解したと思ったのである。戦いを挑んで敗れたことを理由に、押し掛け妾になる。それがこの女の狙いなのだろう。これは、いままで会ったことのない面白い女だった。いっそ可愛いとさえ云える。


「だがな、貂蝉。念のために言っておくと、おれはお前を地面に押し倒したあと、自分の欲望を抑え込めるかどうか自信がないぞ」

 くくっ、と呂布は笑う。こんな美女を地面に組み敷くのだ。おそらく自制など効く訳もなく、最後まで事に及んでしまうだろう。

 いっそ寝室でを始めたほうがいい気もするが、それではあまりに露骨すぎるかと思い直す。


 その呂布の様子を見た貂蝉は、片方の眉がぴくっと上がった。

「それはどうぞ、ご随意に」


 ふたりは小亭を出て、向かい合った。

「では始めるとするか。しかし、そなたが丸腰では決闘にならないな。おれの剣を貸してやろう」

 そういうと呂布は貂蝉の左手をとり、自らの股間に導いた。

「これは、何のつもりです。呂布さま」

 貂蝉の顔に血の色が上った。それをどう思ったのか呂布は満足げにうなづいた。


「これは今は短剣だが、そなたがこうやって動かせば、すぐ長剣に……っ」

 言い終わるまでに、貂蝉の右こぶしが呂布の顎を捉えていた。

 あきらかに変な方向に呂布の首が曲がった。

「あ、あう」

 白目を剥いた呂布の巨躯は、膝から崩れ落ちた。


 

「ここは、どこだっ!」

 呂布はぐわっと目を開けた。女の顔が彼を覗き込んだ。もちろん貂蝉だった。呆れたような半笑いをうかべている。呂布は彼女の膝に頭を載せられているのだ。


「おい、今のは反則ではないか」

 その姿勢のままで呂布は口を尖らせた。

「何を言われます。ちゃんと『では始めるか』と仰いましたよ」

「……うむ。言ったな、確かに。ではおれの負けだ」

 首を押えながら呂布は起き上がった。この辺は潔い。


「まったく。頸骨が折れたかと思ったぞ」

「人は首の筋はなかなか鍛えられないと聞きましたので」

 呂布の不意を衝いて顎の先端を殴りつけたことで、強い脳震盪を起こさせたのである。

「恐ろしい女だな、そなたは。どこでこんな技を覚えたのだ」

「……」

 貂蝉は答えない。平然と衣装の裾を直している。


「では、わたしの従僕になっていただけますね」

「それは約束だからな。それに、どうやらおれは命を拾ったらしい」

 呂布は貂蝉の袖口に目をやった。貂蝉もそこに視線を落とした。そこには短剣が潜ませてある。その剣のような鋭さで、彼女は呂布を見た。


「ならば、世界中の人間を裏切るだけの覚悟をして下さい。そして、死後も決して称賛されることは無いだろう、と云う事も」


「待て。お前いったい何をするつもりなのだ」

 念を押され、さすがに呂布は慌てた。 

「理由は訊かないで下さい。ですが、わたしは漢王朝に仇なす者たちを、どんな手を使っても滅ぼすと、固く心に誓ったのです」

 うーむ、と呂布は唸る。


 従僕になることは承諾するとしても、そんな大それた事に付き合わされるのは勘弁して欲しいのが本当のところだ。

「お前は、朝廷に縁者でも居るのか」

「答えられません」

 にべもない答えに呂布は苦笑した。だが、上気した顔で真剣に彼を見詰める少女を見て呂布の心は決まった。

 

 呂布は貂蝉の肩に手を置いた。

「今まで、おれには生きていくうえで定まった目的といったものは無かった。だが、お前となら面白い事が出来そうだ。おれはお前について行くことにするぞ」

 どうせ丁原に従っているのも成り行きでしかないのだ。呂布はそう思った。


 貂蝉は身体を寄せ、呂布に口づけする。

「これは契約金の代わりです」

 怖い程の無表情で貂蝉は言った。



 その勇猛さから、前漢の名将 李広と同じく飛将ひしょうと綽名された呂布。後の史書に「叛服常ない」とまで書かれた彼の人生はこの時から始まったと言っていいだろう。




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