第7話 呂布と貂蝉

 王允の部屋に漂う暗くどんよりとした空気に、貂蝉は顔をしかめた。

 彼女が近付いても、王允は卓に突っ伏したままで顔も上げない。両手で頭を抱えたまま低く唸っている。董卓の屋敷から戻ってからずっとこうだった。

「お義父さま。何があったのです」


 そこでやっと王允は貂蝉の方を見た。普段の傲慢な表情はどこにも無かった。焦燥のあまり頬がこけているようにさえ見える。


「お前のやった事が李儒に知られた。おそらく董卓にも伝わっているのだろう。あれが世に知られれば、わしは終わりだ」

 貂蝉は表情を硬くした。


「そのくらいの事は、もとより覚悟の上なのだと思っていました」

 漢王朝のためであるという王允の言葉を信じ、貂蝉はあの男に抱かれた。そして隣で眠るその男を殺害したのだ。それなのに。

「いまさら、何をおっしゃるのです」

「黙れ。貴様のような女に、何が分かる!」


 王允は椅子を蹴って立ち上がると、右手を振りかぶり貂蝉の頬を張った。

 だがその手は空を切り、わずかにその指先がかすめただけだ。貂蝉は柔らかな動きで身体をかわしていた。


「き、貴様……」

 激昂して彼女の胸倉を掴んだ王允は、また右手を振り上げた。

 その間、貂蝉はまったく顔色を変えない。

「今度は、その李儒という男を殺せばよいのですか。お義父さま」

 静かな声で言った。


 ぐっ、と王允は喉を鳴らす。貂蝉の冷たい視線を受け、振り上げた手を弱々しく下した。荒い息をつきながら、彼女を突き放す。

「奴ではない。……丁原だ」

「丁原?」

 幷州の刺史であり、呂布を筆頭部将とする大軍を率いる北方の雄である。そして彼自身も恐るべき剣客なのだった。


「丁原とその配下の呂布は、董卓の送った十人もの刺客をすべて返り討ちにしたらしいのだ」

 ……じゅう、にん。貂蝉の唇が動いた。

「そんな男を私にどうしろと」

 普段はまったく無表情な貂蝉が、思わず笑い出しそうになっている。

「何の冗談ですか、それは」


「奴の首を取らなければ、王宮前の広場に晒されるのはわしの首だ」

「そうですか」

 貂蝉は興味を失ったように襟元を直している。王允はさらに身を乗り出した。

「それだけでは無い、わしの首の横に並ぶのはそなたの首だぞ」

「なるほど」

 今度は手で髪を撫でつけている。いよいよ関心は無さそうだった。


「だから、もっと身を入れてわしの話を聞け、貂蝉!」

「しつこいですよ、お義父さま」

 これは主人あるじ選びを間違えたかもしれない。貂蝉の目はそう語っていた。


「そ、そうだ。奴らはこんな事を言っていたのだ」

 もういっそこの男を……そんな貂蝉の不穏な雰囲気を感じたのか、王允は慌てて言い繕った。

「丁原の奴は陳留王をしいそうとしているのだ。これは放っておけぬではないか」


 すうっと貂蝉の目が細くなった。

「陳留王さまを……本当ですか、お義父さま」

 それは、かつて王允が聞いた事の無いほど冷ややかな声だった。


 ☆


 貂蝉は丁原の屋敷の周囲をゆっくりと歩いていた。どの門も武装した兵士が警固し、巡らした塀は高い。

「忍び込むのは無理そうだ」

 やはり芸妓を装って邸内に入り込むのがいいかもしれない。だがこの屋敷の主は女たちを招き入れることを滅多にしない。明らかに何かを警戒している。


 大路を行き交う人々がざわめき始めた。声の方を振り向くと人並みの中にひと際目立つ巨躯がこちらへ進んでくる。上半身しか見えないが、その肩の筋肉は大きく盛り上がり、恐るべき戦闘能力を想起させた。

 だがその容貌は茫洋としてどこか幼さを残している。


 その少年ぽい巨漢の前には、どこか古狐を思わせる男が歩いていた。鋭い視線を油断なく周囲に配っている。この男も、わずかな身のこなしから鍛え上げられた武人であることが感じられた。

「あれが丁原と呂布か」

 貂蝉はその主従を見詰めた。


「ちょっと試してみるか」

 雑踏に紛れながら、貂蝉はふたりに近づいて行く。袖口に隠した短刀を確かめるため一瞬目を離し、そしてまた丁原の方を見た貂蝉は凍り付いた。


 呂布の鋭い視線がこちらを向いていた。しかも、明らかに貂蝉の袖口を伺っているのだ。

(感づかれた?)

 呂布という男、あんな間抜け面で何という警戒心だ。貂蝉はすうっ、と小さく息をつく。ここで狼狽えた様子を見せたらお終いなのは、身に染みて分かっている。貂蝉はあえて朗らかな笑顔をつくった。

 こちらに向かいかけた呂布の表情に動揺が浮かんだ。この女が刺客なのかどうか判断に迷っているのだ。


 そんな呂布に小さく手を振り、貂蝉は背中を向ける。

「まずは、これでいいだろう」

 貂蝉は口の中で呟いた。


 ☆


 それからまた貂蝉は偶然を装い、呂布の前に立った。今日の呂布はただ一人、大路を宮廷に向かっているところだった。


「あの時の娘か。やはり、俺を尾けていたのだな」

 呂布は腰の剣に手を伸ばした。もちろん貂蝉のような少女を相手に剣を抜くつもりは無かったが、そこは武人としての習性のようなものだった。

「俺は剣を使うのが苦手なのだ。うちにげきを取りに帰ってもいいかな」

 少しからかうような調子で呂布は言った。


「呂布さま。これを読んでください」

 貂蝉は袖口から一通の手紙を取り出した。ほのかに含羞の色を浮かべているようにも見える。


「えっ? まさか恋文か」

 途端に呂布の態度が変わった。少し頬を赤くし、おずおずと手を差し伸べる。意外とこういう事に慣れていないのかもしれなかった。


「すみません。それは違います」

 貂蝉はいつもの無表情に戻った。

「これは、果たし状です」


 呂布は、ぽかんと口を開けた。

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