第5話 宮中に集う虎狼

「おい、孟徳(曹操の字)。うちに手紙が届いていたぞ」

 庭先から声を掛けたのは曹操の幼なじみの夏侯惇かこうとんだった。大柄な体を揺らし縁側に腰かけると手紙を差し出した。

 夏侯惇の家は、曹操の父親 曹嵩そうすうの本家に当たる。これは曹操の祖父である曹騰は宦官であったため、夏侯家から嵩を養子として迎え入れた為である。


「構わん。捨ててくれ、夏侯惇」

「なんだ、読まなくていいのか。大事な用事かもしれないのに」

「今のおれには、これ以上に大事な用などありはしないさ」

 そう言うと曹操はまた文机に置いた書物に目を落とした。


 故郷のしょうに戻った曹操は、日がな一日縁側に出て兵書を読んでは、その注釈を付けているのだった。

「それは『孫子』か。おれも子供のころから随分読まされたものだ。今では正直、飽き飽きしているがな」

 渋い顔の夏侯惇を見やり、曹操は皮肉な笑みを浮かべた。


「正直さはお前の取り柄だ、夏侯惇。だが、お前はこれを読んだとは言えないな。字句はそらんじているかもしれないが、それを生かすことを知らない」

 またお説教が始まったか、夏侯惇は頭を掻いた。


「ああ、分かったよ。もし一朝事あるときには、孫子の兵法の神髄を身につけた大将軍のもとで闘うさ。……お前みたいな、な」

「からかうなよ、夏侯惇」

 その言葉とは裏腹に、満更でもなさそうな曹操を見て夏侯惇は小さく笑った。


「だが、これは……開けてもいいか、孟徳」

「好きにしろ」

 どれどれ、と読み始めた夏侯惇は思わず立ち上がった。

「おいこれは、お前を朝廷へ招聘すると書いてあるぞ!」

 さらには将軍位を用意するとも。


「それは同時に董卓の派閥に入るという事だ。考えるだにぞっとしない」

 曹操は顔を上げもしなかった。

「そういうものかな……」

 手紙をしまい込み夏侯惇は首を振った。将来の大将軍さまの考える事はよく分からん、そう呟いた。


 ☆


 宦官に謀殺された何進は、妹が皇后という縁だけで大将軍にまでなった男だが、所詮は一介の庶民に過ぎない。宦官の専横に対し憤ることはできても、そこから何か対応を考える能力はなかった。

 揚げ句、この男がとった策は、およそ考えられるうちで最悪といってよかった。あろうことか、各地の軍閥を洛陽に呼び寄せ自らの後ろ盾にしようとしたのだ。


 辺境の異民族を相手に闘争を繰り広げる猛将たちが、何の功績もない自分の命令に唯々諾々と従うと考えたのも愚かなら、それを察知した宦官によってあっさりと殺害されたのは、もはや笑い話にもならない失態だ。


 そんな何進の招きに応じ、まず洛陽に入ったのは涼州に本拠を置く董卓だった。しかも上洛の途上で少帝 劉辨と陳留王 劉協を手中にしている。宦官排斥の首謀者である袁紹がいかに歯がみしようとも、これからの朝政がこの男を中心に回って行くのは如何ともしがたかった。


 しかも洛陽に入った軍団は董卓だけではなかった。幷州へいしゅうの刺史、丁原ていげんもまた何進の要請に応じ上洛した一人だった。

 狡猾な戦術で敵を陥れる戦法を得意とする丁原は『幷州の狐』と呼ばれていた。常に伺うような視線で相手を観察しているのが特徴的な男だ。


 そして宮廷内でこの男と行き合った者は必ず道を譲った。それに対し丁原は鷹揚に応えるが、道を譲った者は決して丁原を見てはいなかった。

 その視線は丁原の背後に従う巨漢に向けられていた。


 呂布、字は奉先。


 髯は薄くやや童顔ではあるが、腕の筋肉は強靭な鋼をより合わせたように盛り上がり、分厚い胸と引き締まった腰部を見ただけで、この漢の戦士としての能力を想像するには十分だろう。

 巨大なげきを携え丁原を守護する姿は、伝説の軍神が地上に降臨したのだと誰もが思うほどだった。



 董卓の提案した、少帝を廃し陳留王を新帝とする意見に対し、面と向かって反対したのはこの丁原だった。


「天子に退位を強要するにはそれなりの理由がなければならない。現在の皇帝陛下に何の落ち度があると言うのか。いわんや陛下を補佐するは群臣の役目。それを為すことが出来ぬというなら、座を降りるは董卓、お前であろう」

 有力武将たち一同が会した室内は、さざ波が立つように丁原に賛同する声があがった。だがその声は小さい。


 その空気に、董卓は何も言わず室内を見渡した。ただそれだけで丁原の言葉にざわついていた堂内が一気に鎮まる。誰もが董卓と視線を合わせるのを避けるように目を伏せた。袁紹に至っては最初から何一つ発言していない。

 反董卓の急先鋒たる丁原でさえ、落ち着かなく目を泳がせる。ごくりと唾を呑み込んだ丁原は救いを求めるように、背後に立つ呂布を見上げた。


 見る者の魂を圧殺するような董卓の視線と、呂布の茫洋とした視線が丁原の頭越しに絡み合っている。思わず丁原は首をすくめた。


 突然、董卓がふっと笑った。

「では今日はこれで解散しよう」

 董卓が立ち上がるとその巨躯が居並ぶ武将を圧倒した。強烈な殺気が迸り、他に立ち上がる者はいなかった。


「次回招集するまでに、皆よく考えておくのだな」

 董卓はゆっくりと背を向け、部屋を出て行く。その際に、ちらりと呂布を べつした。


 室内に残された諸将はうつむき、墓場のような沈黙がその場を支配していた。


 







 


 

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