第2話 漢王朝を蝕む毒

 宦官といういわば異形の者達は、当時の文明国と呼ばれる国であれば普通に存在した。

 彼らはあるものは戦争によって奴隷身分に堕ち、またあるものは刑罰(宮刑)によって、男根を切除されたのである。


 漢王朝の国教ともいうべき儒教の観点から云っても、自らの肉体を棄損することは親に対する最大の不孝とみなされ、忌避されるべきことだった。


 しかしある頃から自らその処置を行い(自宮という)宮廷に入る事を志願する者が出はじめた。これは、王や貴族は多くの女性を抱えており、彼女らの世話をする男手が必要とされたからである。もちろん男根を切除するのは、彼女らと間違いを起こさないためだった。

 もちろん当時の医療技術では、かなりの確率で感染症等によって命を落とすことになったが、その危険を乗り越え、後宮での役職に就けば、下役人で終わるより遥かに豪奢な生活を送ることができるのだ。


 また古来、王朝の簒奪は数えきれないほど起こっているが、子孫を残すことが出来ない宦官は、そういった野望を持つことは無いと考えられていた。それが権力者が宦官を安心して身近に置いた大きな理由である。


 ☆


趙高ちょうこうという者の名を知っているか」

 王允は後ろから貂蝉の手をとり、文字の形を教えていた。

 貂蝉は振り向くと、小さく首を横に振った。もちろん彼女に限らず、この年代の少女が知っている訳もない。


「この漢王朝が成立する前だ。つまり四百年ほど昔の事になる」

 戦国の六国を滅ぼし、初めて中華統一を成し遂げたのが秦の始皇帝である。その側近であったのが宦官の趙高だった。史上、最も有名な宦官のひとりだろう。


始皇帝の死を秘した上に遺言を捏造して、始皇帝の長子 扶蘇ふそを自害に追いやった。そして自らが操りやすい暗愚な末子 胡亥こがいを二代皇帝としたのだ」


 自分の身の周り、つまるところ宮廷内の争いにしか関心のない趙高は、各地で起こった大規模な叛乱にも何ら手を打とうとはしなかった。

 皇帝や趙高に諫言するものは殺され、阿諛追従するものだけが朝廷の高位に就いた。秦帝国は外から崩壊するとともに、内側から腐っていった。


 そして遂に劉邦を首領とする漢の前に、大帝国は滅ぶに至るのである。


「これが宦官の本質よ」

 吐き捨てるように王允は言った。所詮、自分ひとりの事しか考えず、国家の大局を見定めるなど出来はしない連中だ。つまり宦官は滅ぼすべき呪われた存在なのだ。


「でも、それで現在の漢王朝があるのではないでしょうか、お義父さま」

 貂蝉はその切れ長の目を細めた。その表情は思慮深く、決して軽口を言った様子ではなかった。そのことが王允をさらに激怒させた。


 激しく頬をうたれた貂蝉は椅子から落ち、手にしていた筆は床に転がり墨痕を残した。

「二度とそのような戯言を口にするな。宦官が歴史を動かすなど、決してあってはならぬ事だ。よく憶えておけ貂蝉!」

 王允は足音荒く部屋を出て行った。

 貂蝉は頬を押え、その背中を見詰めていた。

 

 ☆


 その夜。貂蝉の寝台にはもう一人、女の姿があった。

 聶隠じょういんというその女は、かつての美しさを想像するに足る妖艶さを持っていた。単に美貌だけではなく高い教養を持ち、胆力にも秀でた彼女は、王允が妓楼から身請けし屋敷内の女たちを纏めさせているのだった。


「こんな娘の顔に傷をつけるとは……王允さまも大した器量ではない」

 赤く腫れた貂蝉の頬を長い指先でそっと撫でる。


 琅邪ろうや(現・山東省)の名家であった聶氏の一族も後漢末の戦乱によって各地に離散を余儀なくされていた。家が没落し身売りせざるを得ない娘も数多く、聶隠もその中の一人だった。

 

「痛むなら今夜は止めておこうか」

 聶隠はその豊かな胸に貂蝉を抱きよせた。しかし貂蝉は身体を離し、身につけたものを脱ぎはじめた。

 それを見て聶隠は小さくため息をつく。


「そうか……。じゃあ、男というものについて、私が知っている事はすべて教えてあげる。でもまずは自分自身について知らなきゃいけない。あなたのどんな仕草、嬌声こえが男を愉悦よろこばせるか、を」


 聶隠の白く細い指が貂蝉の内腿を這いあがっていく。そして、つぷっと音をたて少女の身体に潜り込んだ。

 貂蝉の花弁のような唇がかすかに開き、しろい歯がのぞいた。




聶隠じょういんさま、宦官を皆殺しになど出来るものでしょうか」

 ほとんど意識を失うまで幾度も昇りつめさせられた貂蝉だったが、気息奄々としながらの第一声がこれだった。

 聶隠はさすがに顔色を失った。


「あなた。ずっとそんな事を考えていたの……」

 怜悧ではあるが、まだ幼さも残る貂蝉の顔を見詰め、聶隠は初めてこの娘の事を怖ろしいと感じた。


 ☆


 現在、漢王朝の皇帝は劉宏という。後の世には霊帝として伝わる人物である。

 この霊帝というのは後に贈られた諡号しごうで、それはおよそ『国を乱した君主』といった意味になる。


 酷なようではあるが、国内の経済は破綻寸前。宮廷内では宦官の跋扈を許し、世の乱れに乗じ黄巾賊の蜂起が各地で続く。刺史や太守という朝廷の藩屏となるべき官僚たちも私兵を集め、あわよくば中央からの独立を目論んでいる。まさに霊帝は乱世を招いた張本人と呼ばれても致し方ない。


 いま漢王朝は毒に侵されている。

 貂蝉は快楽の火照りが残る身体を宥めるように、額に手を置き思った。その手は夜気に晒され、ひんやりと冷たかった。


「宦官が歴史を動かすなど、あってはならない」

 養父、王允はそういった。

 それを行うのは王允たち士大夫でなくてはならないのだ、と言いたかったのだろう。貂蝉は額に置いた手を、まだ赤く腫れている頬に当てた。

 だが、それも違う。貂蝉は呟いた。


「この国から毒を消し去るのは、私たち女の役目だ……」

 


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