少女刺客伝~月下美人の咲く庭で

杉浦ヒナタ

少女暗殺者の誕生

第1話 洛陽の暗殺者

 暗闇の中、貂蝉ちょうせんは目をあけた。

 窓の外に月はなく、室内はやっと物の形が判別できるほどの明るさしかない。

 だが彼女にはそれで十分だった。音を立てずに上半身を起こすと、隣で居汚く眠る中年の男を見下ろした。

 貂蝉はこの男に加えられた執拗な愛撫を思い出し小さく身体を震わせた。寝台を降りようとして、彼女はふと眉を顰める。生温く内腿に伝うものを枕元の布で拭うと、床へ抛り捨てた。


 貂蝉は脱いだままの自分の衣服を探る。その袖口には、指で曲げればしなるほど薄刃の短刀が忍ばせてあった。

 何の迷いもなく、貂蝉はそれを男の首筋にあてる。

 ぷつり、とかすかな手応えとともに、刃は男の皮膚に食い込んだ。それに沿って、すぐに血の玉がいくつも浮き上がってくる。


 貂蝉はその刃を横に薙ぎ払った。


 

 翌朝、洛陽の人びとはその門の上に男の首が架けられているのを見た。首は朝廷の高官であり、この屋敷の主のものだった。


 ☆


 豫州刺史 王允おういんは清廉剛直で知られる。

 この当時、朝廷は中常侍ちゅうじょうじと呼ばれる宦官の集団によって牛耳られていた。しかし王允は中常侍の首席である張譲ちょうじょうでさえ容赦せず断罪しようとした。そのため彼の恨みを買い、逆に讒言ざんげんによって処刑されかけた事さえあるほどだ。

 


「昨夜の男は、宦官に取り入り今の役職を手に入れたのだ。しかもその権威を振りかざして、無辜むこの民を虐げた悪辣な輩であった」

 貂蝉は湯を張ったたらいにうずくまり、王允の言葉を聞いていた。色白で端正なその顔には何の表情も浮かんでいない。ただ鋭い光を放つ眸で遠くの一点を見詰め、時折小さく頷いた。


 その少女の身体に付いた返り血を、王允は手ずから洗い流している。王允の手は少女の膨らみ始めた双丘から、なめらかな曲線を描く下腹部へと這わされる。膝立ちになった貂蝉はされるがままにその体を任せていたが、男の指が太ももの合わせ目に滑り込んだ時、小さく声をあげ目を閉じた。


「……わたしは、正しい事をしたのですよね。お義父さま」

 貂蝉は唇をふるわせ、ため息と共にかすかな声を洩らした。


 ☆ 


 高祖 劉邦りゅうほう以来、前後四百年にわたり中華を支配してきた漢王朝も近年では衰退著しく、ついに霊帝の世に至り崩壊を目前にしていた。

 霊帝は政事に関心を示さず、ひたすら酒色に溺れていた。このため、内官と呼ばれる皇帝個人の使用人であるはずの宦官が権力を伸ばし、表の官僚たちを圧倒していた。

 自らを『清流』派と称した官僚たちは『濁流』宦官排斥を幾度も図っている。しかしその度に事は破れ、彼らは誅戮ちゅうりくの憂き目をみてきた。


 王允はその清流派のながれを受け継ぐ者と云っていい。事あるごとに宦官の専横に対し抵抗の意志を示していた。


 その王允はある日、孤児の少女を拾う。


 黄巾の乱による兵火はこの洛陽へは至っていない。しかし戦乱は多くの戦死者とともに、さらに多くの数の孤児を生み出すことになった。おそらくこの少女も、そういった中の一人なのだろう。

 彼女は足に怪我を負い、路傍にうずくまっていた。


 そのまま通り過ぎようとした王允の足を止めさせたものは、その少女の美しさ、そして十代半ばと思われる彼女の年齢には、似つかわしくないほどの鋭い眸だった。

「そなた、名は何という」

 だが少女は口を結んだままだった。


「強情だな。だがその表情、気に入った」

 王允は片頬だけで笑った。

「一緒に来い。お前に生きる場所を与えてやる」

 彼はうずくまる少女に手を伸ばした。


 顔をあげ、しばらくそれを見つめていた少女は、その手を借りることなく黙って立ち上がった。ひどく痩せてはいるが、伸びやかな手足が印象的だ。少女は片足を引きずりながら、王允とともに馬車に乗った。


 少女の足の傷はそこまで重いものではなかった。傷が完全に癒えるまで、そう日数はかからないだろう。

 飢えた野良猫のような少女に食事を与え、沐浴をさせる。

「……ほう」

 王允は言葉を失った。侍女によって衣装を整えられた少女は目を瞠るほどの美しさで、彼の前に立っていた。


「そなたは月の光に似ている」

 王允はつぶやいた。それは、冷ややかに研ぎ澄まされた刃物の美しさだった。


 ☆


貂蝉ちょうせん

 王允は少女を呼んだ。怪訝そうに彼を見返す少女。

「そなたの名は、貂蝉だ。よいな」

「はい」

 少女は短く答えた。


『貂蝉』とはてんの毛皮と蝉を模した冠の装飾、またはそれを付けた冠そのものをいう。この可憐な少女に朝廷の官僚が用いる冠の名を与えた王允の真意は分からない。だが、これが彼女の一生の名前となった。


 その夜。月明かりが部屋に差し込んでいた。

 慣れない寝台で眠りに就こうとした貂蝉は、男が部屋に入って来たのに気付く。それは彼女も半ば予期していた。王允は貂蝉の薄物をするりと脱がし、その細い裸身を強く抱いた。


「このまま儂の妾になるか、貂蝉」

 それでもよい、王允は少女の身体を規則的に穿ちながら、薄紅に染まった小さな耳朶にささやいた。

 しかし貂蝉は昇り詰める寸前、激しく首を横に振った。

「わたしは王允さまのために働きたい」



 こうして、後に漢王朝に仇為す董卓と呂布を滅亡に追い込んだ少女は、王允の義娘として歴史書にその名を記すことになる。

 


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