【捌】
「淑子さん、ご結婚おめでとう!」
「さみしくなるわ。きっと幸せになってね!」
「ありがとう皆さん」
女学校の同級生が寿退学した。
皆に祝福と羨望の眼差しを送られた彼女はとても幸せそうで、クラスメイトたちに対して、「皆さんにもいいご縁がありますように」と言葉を残して女学校を去っていった。
クラスメイトらは私も早く結婚したいわと口々に囁きながら、羨ましそうにため息を吐いている。
私は彼女たちを見守りながら、この時代の事を考えていた。
【命短し恋せよ乙女】という言葉がある。
その言葉通り、娘の旬は短い。女学校卒業となると、卒業式過ぎても嫁の貰い手のいない卒業面(醜女)と後ろ指を差されるのだ。
私は自ら後ろ指差される道を歩もうとしている。大学へ進学すること、それが自分の決めた道だ。きっと後悔しない自信があるけども、同調圧力というのか……
きっと嫁の貰い手はいないであろう。私には勉強に生きて、地味に独身の人生を歩む道しか想像できなかった。
自分が志した道だけど、ちょっと切ないものがあるわ。
私は迷いを振り切るかのように頭をぶんぶん振ると、本を取り出した。これは異国の情勢についての本である。
一般市民である私の耳には戦争の詳細はまだ入ってこない。忠お兄様もそれを語ることはしない。だから自分なりに情報収集をしようと思って借りてきたのだ。
新聞もあるにはあるけど、情報統制されているから確実な情報は記されていないのよね……しかしもう既に外国では争いは勃発しているはずである。
本を読み始めた私に気がついた同級生が数名机の周りに集まってきた。
「あら亜希子さん、またお勉強なの?」
「難しそうな本ね。本当に勉強家なのね、あなたって」
「亜希子さんは結婚にはあまり興味がないの?」
同級生からの素朴な疑問に私は苦笑いして返すしか出来なかった。
■□■
「亜希子お嬢様、お手紙が届いておりますよ」
「ありがとう」
女学校が休みの休日、縁側で読書をしていた私に下働きの人が手紙を渡しに来てくれた。宮園亜希子様と書かれたそれを私は何の疑いもなく、開封して中身を確認した。
手紙は、遊女の“さくら”からであった。
『大切なお話があります。あなたと、宮園家で下宿している大学生・吹雪さんが暴漢に襲われた件についてです。』
そのはじまりの文に私の中で疑惑が生まれた。
確かに半月前ほどに暴漢に襲われ、私を庇った吹雪さんがひどい怪我を負った。暴行した犯人はあの後警官隊に捕まったはずだ。
……なぜ、吉原の中にいるさくらさんがそんな事を知っているのか。
『本日夕刻前、吉原の大門前でお待ちしております。』
私の返事なんて要していないような締めくくり方だ。
どうして彼女は私のことを知っているの? 私と彼女はあの始まりのときに目が合っただけ。言葉をかわしていないのに、私の名前や居住地を知っているのはなぜなの?
……まさか、考えたくないけど。彼女があの荒くれ者を送ったっていうの? そんな事をする必要があるかしら?
ドラマの中では吹雪さんは、さくらに横恋慕する役。最終的にはさくらの背中を押してくれる素敵な男性だった。さくらはあのドラマの主人公で、ヒロインで、健気で女性らしい役柄だった。
なのに、どうして…?
考えれば考えるほど嫌な感じがした。
そもそも私と話す必要があるのか。
彼女の運命の人は忠お兄様だ。当て馬吹雪さんとマッチ役の私は二の次でいいはずだ。
得体のしれない恐怖が私を襲う。
同時に、怒りが湧いてきた。
私も吹雪さんもすごく恐怖を味わったんだ。大分快方に向かった吹雪さんは怪我が原因で数日間高熱にうなされたし、本当に大変だったんだ。
私は主人公のさくらを神格化しすぎてたのかもしれない。
いくら主人公でもしていいことと悪いことがあるだろう…!!
私はその手紙をぐしゃりと握りしめると、スクッと立ち上がった。
「亜希子お嬢様? どちらへ?」
「夜には戻ってきます!!」
下働きのマサさんの問いかけに大声で返すと、私は家を飛び出して駆け出した。
向かう先は吉原。
ドラマの中で一度だけ、“亜希子”が吉原に出向くシーンが有る。
だけど彼女は中には入らない。
さくらを手紙で大門近くまで呼び出して、そこで言いたいことを言うのだ。
「忠お兄様に近づかないで。吉原の遊女が恋人なんてただの足かせなのよ」って。
これじゃ逆である。
主人公のさくらが、マッチ役の私を牽制するみたいに……!
走って走って、私は息を切らして例の大門前に辿り着いた。
夕刻前の吉原は見世の準備でにぎやかになる時間帯だ。だけどまだ遊女達は出てきていないので、男性客の姿もまばら。
私はさくらさんの姿を探す。一般女性である私はこの中に入れない。遊女と区別をつけるために通行手形がないと入れないのである。吉原の大門前には門番がいて、私を訝しげに見下ろしていた。
「──宮園亜希子というのはお前か」
「!?」
いつの間にか背後に人が立っていた。
私は背後に立っていた明らかに堅気じゃない男に腕を掴まれ、吉原の大門の先へ引きずり込まれた。
「おい、その娘の通行手形」
「いいからこれとっとけ」
止めようとした門番にお金を握らせて口封じをすると、そのまま人気もまばらな吉原の街へ連れ込まれる。
「ちょっ、離して!」
「静かにしな。俺はさくらの姐さんに頼まれただけだ」
「…!」
腕を振りほどこうと藻掻いてもびくともしない。顔面に目立つ刀傷のあるその男は無感動にそういった。
…見世の男衆…って役割の人だろうか?
これ以上騒いだら殴られるかもしれない。私はゴクリと生唾を飲み込み、足を縺れさせながらあるところに連れ込まれた。
場所は見世ではなく、引手茶屋と呼ばれる場所だった。引手茶屋では食事や酒を楽しみながら、好みの遊女をリクエスト、呼び出しするシステムなのだ。
……なぜ、ここに私を……?
私を連れてきた顔に傷のある男は、「二階であんたを待ってる」と顎を動かして指示してきた。この先は一人で行けという意味みたいだ。
私は戸惑った。吉原自体特殊な空気が流れているのだ。ここは私がいていい場所じゃない。意気込んで来たのはいいけど、アウェイな場所に一人放置されて勇気が萎んでしまったのだ。
だけど傷の男が睨んでくる。私は古びた階段に足をかけておっかなびっくり登り始めた。
ギシギシと軋む階段を登り、二階へ上がると、いくつか部屋があった。さくらさんはどこにいるのだろう……
「──お入り」
その声に私はぎくりと足を止めた。
閉ざされた襖の向こうからかけられたその声には聞き覚えがあった。だけど、ドラマの中の彼女はこんな冷たい声を出す人じゃなかったのに。
「…失礼します」
意を決して襖をそっと開ける。
その先に彼女はいた。
彼女は煙管をくゆらせ、窓の外を眺めていた。まだお仕事前の格好で全く着飾っていない彼女だが、それでも充分美しい。
彼女はゆっくりと振り返ってこちらを見る。
私と彼女の目がかち合った。その目を見た瞬間、私は声も出せずにぴしりと固まってしまった。
──その顔は能面のように冷たく固まっていたから。
「どうぞ入って」
その声に頭の中で警鐘が鳴った。嫌な予感がひしひし伝わってきた。
しかし私の体はその声に抗えずに、フラフラと入室していった。
目の前にさくらがいる。
さくらの造形をしているのに、私には全く違う人に見えるのはなぜなのだろうか。彼女の私を見る目はどことなく冷たく、私は居心地が悪かった。
ドラマの流れとは全く違う形で、ヒロインとマッチ役の私はこうして対面を果たすことになったのである。
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