二子玉川駅にて

 なし崩しの昼夜勤ダブルシフト明け。

 電車のドアが開閉するたびに、夜明け直前の、刺すような冷気が首筋から忍び込んでくる。

 私は忙しさにかまけてなくしてしまったマフラーのことをグジグジと考えながら、窓の外に流れる風景をぼーっと眺めていた。


「どこに置き忘れたんだろうなぁ。結構気に入ってたんだけど」


 昨日は散々だった。出勤と同時に交通事故の患者が立て続けに運び込まれ、そのまま患者に付き添うような形になってナースに指示を飛ばしながらICU集中治療室に入り、一瞬現場を離れてスクラブに着替えすぐにとんぼ返り。あとはずっとそのままだ。急患は途切れず、帰り損ねてそのまま宿直までこなす羽目になり、ずっと立ちっぱなしでふくらはぎもパンパンだ。食事もろくに取れていない。


(ロッカーにしまったつもりだったけど、控え室の机に置きっぱなしにしちゃったのか、それとも誰かに持ってかれた? まさかね)


 言うまでもなく、私の勤める救急病院はとんでもないブラックだ。

 受け入れを渋られる重傷の救急患者を積極的に引き受ける最後の砦三次救急。患者にとっては天使、働く私達にとっては悪魔のような勤務先びょういんだが、一度は職場放棄をして行方をくらませた私を再び迎え入れてくれた。それだけでも感謝しなくてはいけない。


(……いや、まてよ)


 この程度のことで感謝の念を抱く時点で、自分はもう取り返しのつかないくらいブラックに染まっているのかも。


(それにしても寒いな)


 どうやら夜半から雪が降ったようで、流れる景色もなんとなく白い。どうりで今夜は交通事故の患者が多かったわけだ。

 間もなく電車は自宅の最寄駅に着く。これから帰ってシャワーを浴びて食事をして少し寝て、また数時間後に夜勤だ。出戻りの立場ヒエラルキーは地を這うほどに低いのだ。

 ガラガラと扉が開く。ここは多摩川の上にホームがあるので、とにかく風が冷たくて辛い。みんな同じ事を考えるせいで、どうしても冬は多少はましな渋谷側に乗客が集中し、人混みが嫌いなひねくれ者の私はあえて川崎側に乗ることにしている。


「……ああ」


 ホームに降り立った瞬間、思わず声が漏れる。

 まるで多摩川を覆い隠すように、真っ白な濃霧があたりに立ちこめ、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


(そういえば……)


 こんな霧の日には決まって思い出す。

 霧に埋もれた眼下の街を見下ろし、私はらしくもないハイテンションで隣に立つ男の子にこう言ったのだ。


「こんな風景を見てると、まるで私達は世界の終わりに取り残された最後の人類みたいだって思わない?」と。


 あの頃、私は世界を呪っていた。

 その思いは今も大して変わらない。




 そこそこの成績で志望校に合格し、後は卒業式を迎えるばかりだったあの日、突然の大地震が海沿いの私の町を襲った。

 それだけじゃない。お客様からお預かりした大切な品物しちぐさを守るため、父母は倉と共に津波に沈んだ。

 私だけが後に残され、親戚の家をたらい回しにされた挙げ句に叔父の家にやっかいになることになった。居心地は当然最悪だ。私は、この状況を抜け出し、父母のかたきを取るためにも医者になろうと決心し、そのためのベストと信じて上京した。

 でも、いざ現場に出てみると、そんな甘い決心はすぐに揺らいだ。

 学部上がりの研修医ぺーぺーに出来ることなんて何もなかった。

 目の前で重症患者が次々と命を落とす。みんな簡単に死んでしまう。

 来る日も来る日も何年もそれが続き、すっかり自信を失った私はある朝、どうしても職場に向かう電車に乗れなくなった。


(私のやりたかったことは本当にこれなの? そもそも、私がここにいる意味なんてあるの?)


 いくら自問しても答えなんて出ない。

 そのままバイクに跨がった私は、何もかもを放り捨て、あらゆるしがらみから逃れるように西に向かった。

 ところが、だ。

 こともあろうに、私は行きずりの男の子に恋をしてしまったのだ。

 悩んで、逃げて、その挙げ句に色気づいた。どうやらホルモンの分泌までおかしくなっていたらしい。

 今朝と同じような濃霧の朝に、ハイテンションの私は思った。

 このまま世界が終わって、残されたのが私達だけならいいのに、と。

 でも、もう一方でわずかに残された理性が必死にそれを否定する。この子を私の身の破滅に巻き込むわけには行かない、と。


(あれ?)


 思考の迷路に迷い込んでいた私は、ふと目の前を通り過ぎた人影に目を奪われる。あのターコイズブルーのマフラーは……


(もしかして、私の?)


 そんな訳はない。見ず知らずの男性がどうして私のマフラーを巻いているというのだ。だが、目を離せないでいるうちに、彼は崩れるようにホームにうずくまり、苦しそうに喉をかきむしる仕草を見せた。


「ちょっと、キミ! 大丈夫? どうしたの!?」


 慌てて駆け寄ってみると顔色が異常に悪い。じゃない! これはチアノーゼ。息が出来ないのだ!


「どうしたの? 食べ物でも詰まった!?」


 彼は朦朧とした目つきで首を振る。必死に喉を指さしている。


「ちょ、ちょっとごめんね!」


 彼をホームに横たえ、上半身を抱き起こすような姿勢で頭をのけぞらせる。口を大きく開け、スマホのライトで照らしながら舌を指で押さえて喉の奥を見る。


扁桃へんとうが異常に腫れて……いや、これは!)


 口の中に指をねじ込み、舌の根元を押さえてみると、真っ赤に腫れ上がった喉頭蓋こうとうがいの先端がチラリと見えた。


「喉が……気道がほとんど塞がっているじゃない!」


 思わず大声が出た。


(急性喉頭蓋炎? 呼吸困難を起こしてる?)


 もはや一刻の猶予もならない。

 私は彼のマフラーをクルクルと抜き取って首の後ろにあてがい、左手の指で位置を測りながらポケットからボールペンを取り出す。ゼブラのF-xMD。護身用の武器にもなると言われて父に渡されたオールステンレスのキワモノボールペンだ。なんて物騒なモノをとその時は思ったけど、今となっては数少ない父の遺品だ。


(えーっと、この出っ張りが甲状軟骨、その少し下だから……)


 必死に気管切開の手技を思い出しながらボールペンで喉にバッテンを描き、そのまま分解して芯とノックボタンを抜く。


「キミ、ちょっと痛いよ。我慢してね! 絶対に大丈夫だからね!」


 走り寄ってきた駅員に救急車を呼ぶように伝え、私は外側だけになったボールペンを行き過ぎないように短く握って大きく振りかぶる。


 ドンッ!


 喉に半分突き刺さったボールペンの先から、ヒューヒューとホイッスルのような呼吸音が聞こえ始めた。もう大丈夫だ。


「救急車を呼んだ! もう少しだけ我慢して!」


 どす黒かった顔色がみるみる赤みを取り戻していく。

 思わず力が抜けてその場にへたり込んだ私に、取り囲んでいた野次馬から一斉に拍手が浴びせられた。ついでにスマホのフラッシュも。


(救えた! 救えた!)


 でも、私はそんなこと気にならないほど舞い上がっていた。思わず頬が緩む。私は患者の顔色を確かめようと膝立ちになり、改めて彼の顔を見て驚いた。目の下にクマが浮き、だいぶ痩せてやつれているけど、絶対に間違いない。


「キミ!」


 なんたる偶然。彼は、志摩のキャンプ場で私が一目惚れした男の子だった。

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