濃霧の朝ーSIDE Bー

凍龍(とうりゅう)

志摩のキャンプ場にて

 目が覚めてテントのジッパーを引き開けると、あたりは一面ミルクのような霧に覆われていた。

 私は体を起こしたまま、はっきりとしない頭でしばらくぼーっとその光景に見とれる。

 霧の粒子がまるで煙のようにテントの中に舞い込んでくる。チリチリと渦を巻き、薄ぼんやりとした朝日を浴びてキラキラと光る。

 その瞬間、私はこの光景を彼にも見せてあげようと思った。




 彼と出会ったのはほんの昨日のこと。このキャンプ場への入り口を見つけられず、地図マップルをぐるぐる回しながら首をかしげていた私を見て、彼は笑いながら声をかけてきた。


「どこか探してるんですか?」


 見れば、林道バイクツーリングの定番と言えるヤマハのオフロードモデル。リアキャリアに荷物を満載しているその割にはずいぶん車高が高い。多分足回りを競技用モデルのそれと交換スワップしているのだろう。

 だとすれば、一見平凡な見た目に反してずいぶんな猛者ということになる。


「もしかして、キャンプですか?」


 ヘルメットを取ったその顔を見て、私は驚いた。というか、見とれた。

 人付き合いが苦手で、まともな恋愛に縁のなかった私は、当然男性に惚れる、という経験もこの年齢としまで一度もなかった。

 でも、私はひと目見て彼に引きつけられた。

 ちょっとタレ気味の大きな瞳。でも、その目の色は普通の人間とはどこか違って見えた。

 わずかに青みがかったその瞳は、どこまでも吸い込まれそうな、深い森の奥底にある湖面の色みたいだった。私を見ているはずなのに、なぜか私を透かして宇宙を見ているような、どこか底知れないその瞳の色。

 あんまり見とれているものだから、彼は目を丸くして顔を近づけてくる。


「あの、お姉さん? どうかしましたか?」

「はっ! あの、いえ、なんだか知り合いに似ていたもので驚いて……」


 適当な言い訳に彼は納得したように頷くと、私の掲げていた地図をのぞき込んできた。


「ああ、ここ、俺の行き先と同じです。良かったら先導エスコートしましょうか?」


 私は一も二もなく頷くと、まるでハーメルンの笛吹きに引き寄せられる子どものように、ぼーっとしたまま彼のバイクのテールランプを追った。

 多分、これが一目惚れというのだろう。

 見も知らぬ男性に心を奪われるなんて、生まれて初めての経験だった。

 テントを並べて設置し、お互いキャンプ道具を持ち寄って夕食を作る。

 彼は大学生で、休学して旅を続けているらしい。年齢としを聞くと私より三つ下だった。


「本当は就活しなくちゃいけないんですけど。なんだか気が乗らなくて」


 彼は後ろ頭をかきながらなんだか照れくさそう。

 自分の進路に違和感があって、ちょっと一休みなんです。そう言って笑う彼に、私は胸の奥にチリリと小さな嫉妬を覚えた。

 



 私にはそんな余裕はまったくなかった。

 震災で両親を一度に失い突然孤児となった私は、叔父の家に引き取られ、必死に勉強してストレートで国立の医大に入った。そうして逃げ出すように叔父の家を離れ、同時に震災孤児に与えられる奨学金を勝ち取った。

 私に医学の知識があれば、あの時両親を失わなくて済んだかも知れない。その一念でここまで突き進み、今年からは都内の病院で研修医として働いている。

 でも、一心に突き進むその一方で、心の中のモヤモヤは次第に大きくなった。本当にこれでいいのか? 私の本当にやりたいのはこの道なのか?

 迷い続けて袋小路にはまってしまった私は、ついに何もかも放り捨てて逃げるように旅に出てしまったのだ。

 多分、今さら戻ったところでもう私の居場所はないだろう。そう考えると何もかもイヤになる。このまま世界が終わってしまえばいいのに。

 旅の間中、私はずっとそれを願っていた。


 (私から幸せと両親を奪った世界なんて、滅びてしまえばいい)


 ずっと世界を呪っていた。なのに、世界は突然こんな魅惑的で幻想的な風景を私に見せつける。

 私は発作的にテントの外に飛び出すと、隣のテントのジッパーを勢いよく引き開けた。


「ねえ、キミ、起きて!」


 寝ぼけ眼の彼に、私はさらに言葉を重ねる。


「外、凄いよ!」


 そのまま手を引くように、彼をテントの外に引っ張り出した。


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