2章 ゲーム一本槍だった俺、キスの味を知る その2
頬を軽く叩き気を引き締め、俺は指定されていた本館ビルに足を踏み入れた。
明るい照明が点いているにもかかわらず陰影の雰囲気が漂い、絨毯が実際的な硬さより深く沈み込む――そんなどことなく映画館を思わせるような空気感のエントランスを進み、受付に行く。
模範的な笑みを浮かべたお姉さんに名前と用件を告げると、歯切れよい声で勉強会の開かれる場所を教えてくれた。
ゲスト用のネームプレートを受け取った俺は礼を告げて、近くにあったVトゥーバーのラッピングされたドアの前に立った。
回数表示が五、四と右から減っていき、一番左端にある一に近づいていく。
ちょうど一になった時にドアが音もなく開いた。
周りには誰もおらず、向こうから出てくる者もいない。俺は誰に気兼ねすることもなくエレベーターに乗った。
入ってすぐに気付いた。
外側から見て死角になるドアの右脇。そこに一人の少女が立った姿勢で壁にもたれていた。
具合が悪いのかと心配になり、俺はそっと顔を覗き込んた。
大丈夫ですかと声をかけようとしたが、少女の顔を見るなり言葉を失った。
「……Zzz」
寝てた。
少女はすごく気持ちよさそうに寝息を立てて眠っていやがった。
呆れ果てると共に、感心することもあった。
少女はなかなかどうしてチャーミングで可愛かった。
顔立ちは整った西洋人風、肌は健康的に薄く日焼けしている。しかしTシャツの襟から覗く鎖骨の下辺りからは真冬のゲレンデみたいに白かった。髪はきれいな癖のないブロンド。背中を覆うぐらい伸びている長いそれは、仕立てのいい高級感あふれるドレスにこそふさわしいだろう。
しかし容姿がいくらよくても、間抜けな寝顔が全てを台無しにしていた。口の端から垂れている涎がダメ押しになっている。
ザ・残念系美女。でもまあ、こういうヤツは最低限のコミュ力さえあれば結局はモテる。
容姿と社交性と金の三つさえあれば、人生はイージーモードだ。そしてこの少女は多分、全部そろえているだろう。
金はTシャツにホットパンツとカジュアルな服装に紛れたアクセや、背負ったバッグを見やれば気配を見つけることができる。たとえば腕につけている星座が板面に描かれた時計は、確か五百万はするブランドものだ。どこぞの大手ゲーム会社の社長と会った時に自慢してきたものと同じだから、間違いない。背負ってるナイロン製のバッグは一見するとただ紺色なだけの地味なデザインだが、実際の値段は三十万ぐらいか。これはタレントの某さんが教えてくれた。
履いているスニーカーはまだ庶民的で、二万ぐらい。でもこれもプロスポーツ選手が愛用しているような質のいいものだ。
相当リッチな家に生まれたお嬢様か、はたまた実業家か。もしくはその両方かもしれない。とにかく俺とは縁のない世界に住んでることは間違いないだろう。
規則正しく漏れ出る吐息からは、微かにいい香りがした。どこかで嗅いだ覚えがあるような気がするが……、思い出すことができない。
エレベーターのドアが閉まる。まだ階数を指定していないのに、このカゴはどこへ行くのだろうか?
そんなことを考えた時、少女は「ンゥ」と声を漏らして薄く目を開いた。
澄んだ海のようにきれいな碧眼だ。見ていると吸い込まれそうになってくる。
「……オゥ」
少女はぼぉとした顔でこちらの顔を見やってくる。鮮やかなピーチ系の色の唇が開き発された声は、気抜けしつつもマイルドな甘さとすっきりした残響を持ち、穏やかに空気を震わせ耳に馴染んだ。
呆けていると、滑らかで温かな手に頬を包まれた。
「またVRゴーグルをつけたままスリーピングしちゃいマシタか」
どことなく英語混じりな日本語。でもしゃべりは流暢、文法の誤りもない。だから余計に逆に絶妙な歪みが生じている気がした。それは聞く者に不快感ではなく、少なくとも俺は愉快さや好感に近しいものを抱いた。
ぷにぷに、頬をつままれる。これはさすがにウザい。
「アンビリバボー、とってもリアル。VR技術はいつの間にこんなに発達してたんデスネー」
何やら盛大な勘違いをしているようだが、緊張のせいで上手く声が出せない。
ハルネ達や愛衣のおかげで女子に対する免疫は多少ある。しかしこんなコミュ力の塊なうえ外国人相手だとどう対応すればいいか、皆目見当もつかない。おまけにさっき顔を覗き込んだままだったせいで、お互いの距離が近い。ちょっと動けば鼻が触れ合いそうだ。そのせいで思考は空回り、文字通り考える葦になって身動きできなくなってしまっていた。
「これはなんというゲームデシタっけ? このガイをラブに落とせばよろしいのデショウカ?」
……ラブ? ラブ、ラブ……。ラッ、ラララララッ、恋(ラブ)ゥッ!?
トサカのついた生き物が頭の中で鳴いたかのようなパニック状態。
「オゥ、お顔が赤くなりマシタネー」
指摘を受け、顔が熱くなったのを自覚。その温度は右肩上がりにさらに上昇していく。
「もうルートクリア間近デショウか? 真昼というのはムードに欠けマスが、ガイがハンサムだからよしとしマショウ」
何をよしとしているんだよ。
内心でツッコミを入れている間に、顔が近づいてきた。
鼻が触れ合い、眠っていた時のように瞼が閉じ。
――あったけー……。
こそばゆくも、温もりある感触。
少女の手が首の後ろに回されてさらに強く、擦りつけるように押し付けられる。
ぷるんとした瑞々しい唇に、鼓動のリズムが翻弄される。
音もない接触が、幾度となく繰り返される。一度離れては再びくっつく。突き出した唇は執拗に何かを求めるように挟み、吸い付いてきて、歯にさえ触れて、離れて。また少し角度を変えて、ちょん、ちゅう、ぷに、ぱっと頭の中だけに響かせて離れていく。
されるがままに俺は少女の行為を受け入れた。
回数は数えてなかったが、軽く十回は越えていたんじゃないだろうか。その間に俺はすっかり少女の唇の感触を覚えてしまった。
「……えーっと?」
キスが途絶えた頃、少女は寝ぼけ眼にようやく理性の光を宿し、俺のことを見つめてきていた。
「おはようございマス?」
「……おはよう」
少女が俺から離れたちょうどその時、エレベーターのドアが開いた。
階数表示を見やった少女は「あ、降りなくちゃデス」と呟き駆け足で出ていった。ブロンドヘアがはためき少女は右に曲がってドア状の視界から消え、ぱたぱたという足音も直に遠ざかり聞こえなくなった。
しばしぽかんとしていた俺は、ドアが閉まりかけた時にやっと我に返った。
慌てて降りて左右を見やったが、当然少女の姿はもう見当たらない。
振り返って上部に取り付けられた回数表示を見やると、ここは目的のフロアだった。
腕時計を見やると、勉強会開始の五分前。
さて、少女を探すか? それとも勉強会に行くか?
少し迷って俺は勉強会に向かうことにした。
このフロアがどれだけ広いか知らないが、おそらく彼女を見つけることは難しくない。
とはいえ、プロゲーマー思考に則(のっと)って考えればだ。難易度よりも『それをクリアしたことで俺は何を得られるか?』という方が重要である。
たとえもう一度会えたとしても、どうすればいい?
被害を訴えるか? 証拠の映像はおそらく監視カメラに残っている、非現実的な話ではないだろう。ただし失念してはならないのは、俺が先に少女に顔を近づけているということだ。下手したら最初にちょっかいをかけたのは俺だと思われかねない。その場合、不利になるのはこっちだ。
じゃあキスしてきた理由を訊くか? それはもう必要ないだろう。少女が寝ぼけていたのは見るからに明らかだった。そこを掘り返すのは不毛だ。
つまりもう一度少女に会うのは、どう考えても俺の得にはならない。これ以上関わらないのがベストだ。
……でもあれ、ファーストキスだったんだけどな。
俺は少女の唇の感触をぼんやりと思い出し、自身の湿った唇に触れた。その指先からは仄かにいい匂いが……、ああ、思い出した。これは薔薇の香りだ。確かゲーミングハウスにいた頃に真古都辺りに勧められてローズティーを飲んだことがある。その匂いとよく似ている。
薔薇香る少女……、か。どことなくポエミーだ。まあ、あの子に優雅な午後のティータイムというのは少しはしたなくて、似合う気がしないが。
リアリストな俺が『あれは夢だったのではないか?』と問いかけてくるが、生々しい感触が鮮明に頭に蘇ってはそれを否定する。薔薇の少女の存在は確かなものだ。絶対に白昼夢じゃない。どこぞのお社(やしろ)の神様だとか魔女とは違う。
益体(やくたい)もないことを考えつつ、俺は勉強会のある部屋へ歩き出した。
もしも同じセミナーの受講生だったら、近くに座ってやろう。それぐらいの復讐は許してしかるべきだ。
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【次回予告!】
夢咲「やっとミーの登場デスカ」
生流「次回予告が始まった5章辺(あた)りからは書きやすいからって、頻繁(ひんぱん)に呼ばれてるのにな」
夢咲「敬語の語尾をカタカナにしてるだけデスカラネ」
生流「最初、キャラ設定で難航してたのにな」
夢咲「まあでも、一番時間がかかったのは名前決めらしいデスケドネ」
生流「どうして毎回あんなに悩むんだか……」
夢咲「次回、『2章 ゲーム一本槍だった俺、キスの味を知る その3』デス!」
夢咲「未(いま)だに生流サンの名前は納得いってないらしいデスヨ」
生流「……ある日いきなり改名してるかもな」
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