プロローグ(後) 猫と暮らす大学生

それから・・・一年の時が過ぎた。


「ただいまメルトおおぉぉ。ご主人が帰ってきたよおおぉぉ」


俺はバイトが終わるや否や直帰。玄関の扉を開けて、待ってくれているだろう一匹の家族に挨拶をする。


「・・・ナァー」


玄関前で、大人しく丸くなっていた1DKの部屋に一緒に住む住人が、甲高い声で反応を示してくれる。


穏やかな美しさを全身から感じるすらりとした体形。

細長い手足は、彼女の上品さを際立たせている。

去年より少し肉がついても、相変わらず優美な体形をしていることは変わらない。

ブルーの滑らかそうな短毛は、去年より毛艶が良くなり、ますます触れるのをやめられなくなる。

そして、濁りない碧眼が、僕をしっかりと捉えていた。

一年前に保護した猫、メルトが俺のことを待ってくれていたのが嬉しくて、ついテンションが上がる。


「おおそうかそうかメルト!ほら!俺の胸に飛び込んできていいんだぞ!」


バッと、俺は手を広げ、いつでもどうぞと言ったように体勢を整える。

あらかじめ言っておくが、俺は別に酔っ払っていない。

メルトという存在が、俺をこんな風にしてしまうのだ。

猫を飼っている人なら、わかってくれるよな??


「・・・」


構える俺を一瞥したメルトは・・・そのままさっさと奥の方へと歩いていき、餌を入れる皿の前で待機し始めた。


「ナァー」


俺の方をじっと見つめ、早く飯をよこせと言っているのがわかる。


「・・・はいはい、ちょっと待ってろ、メルト」


メルトがそそくさと俺の元を立ち去ってしまうことはいつもの光景なので・・・ちょっとしか気にしない。

この一年間、メルトが俺の元に飛び込んできてくれたことは一度だってありはしないが、なんか、家に帰るといつもやってしまう。


狭い玄関に靴を並べ、手を洗ったあと、お姫様の元へと参上する。


「はい、どうぞメルト」


よほどお腹が空いていたのか、餌が皿に入りきる前に食べ始めてしまい、入れようとした餌が最後らへんが落ちてしまった。

食欲旺盛なのは大変良いことだが、一気に食べると吐き出してしまうときがあるから少し心配だ。


「ああメルト、そんながっつくな・・・あ、水も変えてやらないとな」


メルトの横にあるお水の入った小さな皿を持ち上げ、キッチンで水道水を新しく入れる。


カリカリ・・・


頭を下に向けているため、小さいお山のような背中が出来上がっている。

その後ろ姿を何だか無性に触りたくなってしまう。

・・・だが、一度餌を食べているメルトを触ったらめちゃくちゃに怒られてしまったため、諦める。

女の子だもんね。そこらへんデリケートだよね。


無我夢中で餌にかじりついているメルトを見て微笑ましく感じた後、座り込む前にやるべきことをやる。


「ええっと・・・うん、ちゃんとトイレにしてあるな」


部屋の角に置いてある、メルトのトイレである猫砂が固まっていることを確認。四方を見渡して、別の場所でしていないか、それと、吐いた液体が落ちていないかも見て回る。


「メルトが食べ終わった後にトイレ掃除するか」


呼びかけには応じずちょろちょろと水を飲んでいるメルトを横目に、後でメルトがベランダに出たがるかもしれないと思って窓を少し開けておく。


「・・・ふーっ」


俺はソファに座り込み、机の上にスーパーで買ってきたパスタを口の中に放り込む。

今日は晩飯を作るのがめんどくさかったというのと、値引きされていたという理由で既製品。ささっとカロリーを摂取する。


実家でこのように食べたら怒られただろうというスピードでパスタを食べ終え、いつものようにスマホをチェックし始める。

友人への返信、明日の授業の確認、忘れかけていたゲームのログインボーナスの回収など、日課となっている作業をする。


トコトコ


ふと、またメルトの方を見やる。

餌を食べ終えていたメルトは、満足した様子でベランダの空いている窓の方へと向かい、室外機の上で丸くなっていた。


あいも変わらず、わがままで、自由気ままで、見ていて飽きない存在だ。


・・・日を追うごとに愛らしいメルトに毒されていき、今じゃこの家の絶対的存在として君臨している。


メルトが来て一年と一ヶ月が経った。

俺は結局、メルトを飼うことにした。そして甘々になった。


メルトとの生活は、結構上手く出来ていると自分でも思う。

それは、メルトがとても利口だからだと思う。


今までもご近所さんとメルトによるトラブルは起きていない。

トイレは決められた場所にちゃんとする。

爪を研ぐ時は、爪研ぎか俺のリュックでしかやらない。

たまにはしゃぎ回る時もあるが、何かを壊したり鳴き続けるということもしない。

保護した日から、数回動物病院には行ったが、大きな病気にかかることもない。


何だこの猫。俺の暮らしへの融通完璧じゃない?

良い言い方が見つからないけれど、よく出来た猫だと思うのは、俺がメルトに甘えすぎだろうか。


あまり俺に懐いているようには見えないけれど、それはまあ、どこの家猫でも一緒だろう。


「・・・ナァー」


こちらがずっと凝視していることに気づいたのか、メルトは僕を見て甲高い声で鳴いた。

可愛いなーなんて気楽に考えていたら、大事なことに気づく。


「・・・そうだ!課題の締め切りが迫っているんだった!」


メルトに夢中になっている場合ではない。今日の夜十一時五十九分までにオンラインで提出しなければならない課題をやらなければ。

メルトを見て一息ついた俺は、早速ノートパソコンを机の上に置いて開き、イヤホンをぶっ挿し、事前に調べておいた参考文献を見ながらタイピングをする。


毎週鬼のようなレポート課題を要求される授業で、必修科目のため単位を落としてしまったら来年また受けなければならない。

それは嫌だと思いつつ、結局提出締め切りの数時間前にこうして急いで書き上げているのだから、自分の計画性に反省せざるをえない。


カタカタカタカタ・・・


「・・・」


かたっ苦しい参考文献を睨みながら、自分の意見を書き連ねていく。


「・・・うお!」


いつの間にかベランダから出ていたメルトがパソコンの上に乗っかろうとしていた。

これは・・・構ってのアピールだ。


「ナァー」


「ご、ごめんなメルト。あと少しだからさ。ちょっと待っててくれ」


なぜ猫というのはパソコンの上に乗りたがるのだろう。

メルトの頭をカキカキしつつ、メルトの腹を持って机から下ろす。

メルトはこうしてたまに甘えてくる時がある。


頭を撫でろと要求してきたり、猫じゃらしを俺の足元に置いたり、寝ている俺の胸の上に乗っかってきたり。

デレ、と言うのが正しいのだろうか。

その行動に俺はいつもやられている。


が。だが。たまにこうしてタイミングの悪い時に甘えてきたりもする。

ごめんなメルト・・・終わったらいくらでも遊んであげるから。

そう思ったら、課題に対してもやる気がみなぎってきた。


ジーー・・・


机の下で凝視しているメルト視線をどうにかして無視して、俺は課題に向き合う。


カタカタカタ・・・


「よし・・・これで、送信、っと!終わりー!」


ふーっと、今週も乗り切ることが出来たことに安堵する。


まだ春学期が始まって四回目の授業だったが、夏までちゃんと乗り切るためには計画的な課題との向き合い方が必要だなと毎週思うことを今回も思った。


ふと時計を見たら11時ちょっと過ぎ。

ギリギリだった。


「さて・・・メルト!さっきはごめんな。ほら・・・って」


メルトは既にいつもの定位置にいた。

キッチンスペースと俺らがいる洋室を仕切るドアの少し右側に置かれたクッションの上に乗っかり、は?みたいな顔でこちらをみていた。

もうさっきのことは無かったかのようで、メルトは前足をたたんで眠そうな顔だ。


・・・俺はメルトに振り回されっぱなしだな。

さっきは利口な猫だと言ったが、メルトは別にただ俺の生活にマッチしてくれているだけで、大多数と同じ、気ままな猫なのだ。


メルトを飼ってから、猫を飼っている人のレポだったり日記を見ることが多くなったけれど、大多数の飼い主と同じように、猫に良いようにされている。


でも、他の飼い主と同様に、そんな猫を愛おしく感じている。


「メールト」


言葉は通じなくても、こうして喋り聞かせることが大事だと思っている俺は、特に用もないがメルトに声をかける。


ぶんっ


目を閉じたまま、尻尾を一度振るだけの返事がきた。

そんなメルトも愛おしく思ってしまう。


最初はどうなるかと思った大学生活だけれど、うまくやれている。


親からメルトへの届出のついでに仕送りがためにくるけれど、もちろんそれだけでは足りないためアルバイトをしている。

幸いにも、先輩に紹介してもらったバイトで、少し面倒な仕事だけどもまあまあなお金がもらえている。


所属しているサークルにはあまり顔を出すことができていないが、大学ではサークルでできた友人たちと満ち足りた生活を送っている。


そして・・・。


「あ、メルト。今週の土曜、しおりが遊びに来るよ!」


ぶんっ


また尻尾を一振りされただけだったが、別に構わない。


そう、俺は人生で初めて彼女ができたのだ。

女子大に通っている栞は、中学の時に同じクラスで仲の良かった女の子。

偶然こっちの地方の大学に進学した彼女とばったりと再会し、そのまま交際へと発展していった。

この家にもたまに遊びに来ることがあり、メルトのことを可愛がってくれ、メルトとの生活を応援してくれている。


多くの人の助けがあって、こうして幸せに暮らせている。

平凡な、だけど退屈ではない日々。

俺は幸せ者だなと、改めて認識した。



・・・日常は、こうして続くものだと思っていた。

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