第2話
本日の授業も無事に全て終わり、放課後となった。
授業という抑圧から解放された教室はざわざわとし始める。
しかし、そのどれもが私には向いていない。まるでこの席だけ
私に話しかけてくる者はいない。ただ、それは自分から望んだことだ。
彼らは決して私に悪感情を抱いているわけではない。LIAがある限り、そうはならない。
例えば、私もカラオケ行きたい、なんて声を掛ければ快く頷いてくれるに違いない。こちらが話しかければ、笑顔で応対してくれることだろう。
あくまで拒絶しているのは私だ。心の鍵を固く閉ざしている。彼らはそれを察して話しかけずにいてくれるに過ぎない。
だが、
私は中学の途中から明確に他人と関わることを避けるようになったが、それでも彼女はめげることなく寄ってきた。しばらく続いた後、こちらが根負けするような形で普通に接するようになった。
それ以来、私のことは紫織に任せれば良い、というような雰囲気が自ずと醸成されるようになった。彼女がこの私、
「黎、帰ろー」
「あれ、部活は?」
「今日はお休みだよ」
「そうなんだ。じゃあ久々に一緒に帰りますか」
「うん」
紫織は手芸部に所属している。ここ最近は新人歓迎で放課後は忙しそうにしていた印象だが、どうやらそれも落ち着いたらしい。
私は入学した際、即決で帰宅部を選んだ。集団で部活動なるものに勤しむより、自室で一人、本を読むなり映画を見るなり音楽を聞くなりしている方が好きだ。陰気だなぁ、と自分で思わなくもない。
ただ、身体を動かすことは好きなので、ほぼ毎日夕方にランニングはしている。限界が近いと気力で走っているような状態となるが、あれは意志の力で自身を引っ張り上げているような感じがして実に良い。
「にしても、また妙な髪型にしてくれちゃって」
廊下を歩きながら、私は自分の髪に触れて呟く。自分でするはずもない編み込みをいくつも指先で感じた。こんなことをする者は一人しかいない。
「自信作」
紫織はピースサインを示してきた。彼女は良く私の髪で遊びたがる。人の髪を何だと思っているのか。
「何か周囲の目を感じると思ったよ、まったく」
「だって、数学の後の休み時間、ずっと寝てるんだもん。暇で暇で手が勝手に、ね」
「まあ、視界は良好になったけどさ」
前髪が随分と伸びて目に掛かるようになっていたので、その辺りを用いた編み込みに関してはこのままでも良いかもと思えてしまう。流石に帰宅したら崩さないわけにもいかないが。そして、自分で再現できるわけもないので、諦めるしかない。
「もう少し美容室に行く回数増やした方がいいよ」
「うー、めんどいなぁ」
今はボブ程度の長さだが、美容室に行くのを面倒くさがった結果、ミディアムまで伸びてしまうことも少なくない。そうなってくると雑にゴムで縛ることが増える。髪を伸ばしているわけではなく、伸びていると表現するのが正しいだろう。
「せっかく良い髪質してるのに適当なんだから。わたしがどれだけ努力して今の髪型を維持してると思ってるの」
「わ、私だってトリートメントはしてるし……」
「それもし始めたのわたしが言ってからでしょ~」
「むぅ……」
ぐうの音も出なかった。実際、これまで特に意識して何かをした覚えはない。
紫織が雨の日はブラッシングやらを大変そうにしているのも、私からすれば謎だったりする。あれはあれで意外と面白いと言っていたが、もしLIAがなければどのような反応を示しているのだろうか。少し気になる。きっと面倒過ぎて自棄になっているに違いない。
私達は下駄箱に着くと、上履きから履き替えて、校舎の外へと出た。
「ね、黎。こうして帰るの久しぶりだし、どこか寄ってかない?」
「あー、ごめん。今日はちょっと用事があるんだ」
「そっかぁ……それは仕方ないね」
基本的に暇な私が紫織の誘いを断ることは珍しい。その為、彼女は見るからにしょんぼりとした顔となる。
LIAがあっても悲しまないわけではない。あくまで好意的に受け取ることが出来るだけだ。尾を引かない、というのが分かりやすいだろう。
ただ、今日は月に二回の外せない予定があるので、どうしても断らざるを得なかった。
「明日とか明後日は暇だからさ、もし紫織が良ければまた誘ってよ」
「じゃあ明日!」
「オッケー」
先程までの表情はどこへやら、パーッと華やぐのだから分かりやすい。その素直さは彼女の魅力の一つだ。私は思わず頬を緩める。
そうして、明日は何をしようか、などと話しているとすぐに駅前に到着した。
私達の実家は近所なので普段なら一緒に電車に乗って帰るが、今日は別だ。
「それじゃ私、今日はこっちだから」
「うん、また明日ね」
手を振る紫織の姿が構内へと消えるまで見送ってから、私はバス乗り場に向かった。
ちょうど目的の自動運転バスが来ていたので、乗り込む。
正面の3Dディスプレイにはこのバスが辿る路線図が映し出されており、終点として『国立量子医学研究所』という文字が表示されていた。
私はおよそ三十分間バスに揺られ、郊外にある国立量子医学研究所へと到着した。
見渡す限りの敷地内に無数の研究棟が立ち並んでおり、そのどれもが豊潤な予算を思わせる荘厳な白亜の建物だった。
中学時代から通ってすっかり歩き慣れた道のりを進んでいく。場所によっては敷地内を運行しているバスを利用すべきだが、私が目的としている研究棟は比較的近い位置にある。
五分ほど歩くと、周辺で最も大きな研究棟が見えてきた。入口前の大きなプレートには『LIA研究施設』と表記されている。
元々LIAはこの国立量子医学研究所で開発されたものであり、今では敷地内でも最大規模の研究棟を与えられているのだ。
私は自動ドアをくぐると、まばらに白衣の人達が行き交う通路を進んでいき、何度か曲がった後の突き当たりにある部屋の前で立ち止まった。
背丈よりも随分と大きな両開きの扉だ。それは軽く触れると、音もなく左右にスライドして開かれた。
広々とした部屋の正面には横長のデスクがあり、手前には応接用のソファが小さなテーブルを挟んで向かい合って並んでいる。
デスクの向こう側には眼鏡を掛けた老人が座っており、顔を上げてこちらを見た。
「こんにちはー」
「おや、廻間君。こんにちは。もうそんな時間かね」
サンタクロースのように豊かな白髭を蓄えたその人は、
このLIA研究施設の施設長だ。LIA研究に最初期から携わっており、量子医学や神経科学の界隈では非常に有名な人物である。
「今日は検査の前に少し話しておきたいことがあるので、ひとまずソファに座ってくれないか。先にコーヒーでも用意しよう」
「分かりました」
私はソファに腰を沈める。その間に賀東博士は手元の
それにしても、と私は疑問に思う。普段ならそのまま検査室へと行くことが多いので、一体何の話だろうか。
「最近の調子はどうかね?」
「これといって変わったことはないですね。いつも通りです」
「そうか。それは何よりだ。もし僅かでも異変を感じたら、すぐに連絡してくれたまえよ」
「もちろんです」
そんな風に世間話をしていると、コーヒーを載せた盆を抱えた給仕用ドローンがスーッと入ってきた。私と賀東博士の前にそれぞれカップを置き、すぐさま去って行った。
その間、僅か十秒程度だ。カップを置く際もほとんど音を立てず、一連の動きも計算し尽くされたスムーズさで、人間にはなかなか出来ない芸当である。
カップからはコーヒーの豊かな香りが漂ってきていた。これまでにも何度か飲ませて貰っているが、良い豆を使っているらしく日常生活ではなかなか味わえない奥行きのある風味を感じさせてくれる。
私が軽く口を付けてカップを置くと、賀東博士は本題を話し始めた。
「さて、廻間君に話というのは、新型のLIAについてだ。まだ試作段階ではあるが、従来のものとは異なったアプローチをしているので、君のような耐電脳体質者でも問題なく導入できると考えられている」
耐電脳体質。それは私のように特異な脳形質を宿す者に与えられた名前だった。
その名の通り脳の耐電性が一般平均よりも遥かに高いらしい。より具体的に言えば、ニューロン細胞が発する電気信号が通常よりも強力で、脳全体がそれに合わせた耐電性を得てしまうのだとか。
私自身の実感は特にない。それもそのはずで、脳の持つ可塑性がその状態に適応し、ごくごく正常に稼働しているようだ。
たった一つ、現代社会では当たり前なLIAを導入できない、という点を除いてだが。
LIAはグリア細胞に電気を流して励起させる必要がある。しかし、耐電脳体質者の脳はその高い耐電性によって適切な反応を示さないのだ。
ナノマシンは絶妙なバランスのもとで成り立っており、単に発する電気を強くするというわけにもいかないらしい。もはや一から設計し直すに等しく困難なようだ。
加えて、これまでに私以外にもごく僅かながら耐電脳体質者は発見されているらしいが、その誰もが異なった度合いの耐電性を宿している為、より根本的な解決が求められているという話だ。
私は四年前、中学生になった際LIAを導入する段階で脳が適切な反応を示さず、精密検査が行われて発覚した。
何でもそれ以前に発見された例は今から十二年前まで遡る必要があるらしい。私と同じような発覚の仕方だったようだが、その者には研究への協力を拒まれてしまったとのことだ。
その気持ちは分からなくもない。自分を実験体として差し出すということなのだから。どうしても忌避感が生じてしまう。
私もすんなりと了承したわけではなかった。協力するようになったのは中学二年生の冬頃だ。
それ以来、月に二回は放課後にこのLIA研究施設へと通っていた。拘束時間は三時間程度だ。
ちなみに、研究に協力する対価として謝礼金を少なからず貰っている。私が高校生ながら紙の本なんていう道楽に金を費やすことが出来るのはそのお陰だった。月に二回、簡単な検査を受けに来るだけで貰える分としては破格な金額となっている。
「耐電脳体質者にナノマシンによる電気的な干渉は困難である、という結論に至った我々は異なるアプローチを模索してきた。以前にも話したと思うが、ナノマシンによる薬剤投与または光線照射という二つの手段が考案された。しかし、そのどちらも大きな問題を抱えていた。前者は脳細胞が薬剤への免疫を得てしまうこと、後者は脳細胞の多くを
そこまでは既にどれも聞いたことのある話なので、特に疑問もない私は頷くだけに済ます。肝心なのはその先だ。
「今回、新たに我々が実現させたのは、カルシウムイオンを用いたグリア細胞の励起だ。グリア細胞とカルシウムイオンの関係性については覚えているかね?」
「グリア細胞はニューロン細胞と違って電気信号を発することは出来ないが、カルシウムイオンによって周囲の脳細胞と交信を行っている、でしたか?」
「その通り。グリア細胞の一つ、アストロサイトはカルシウムウエーブと呼ばれる現象を起こし、他の脳細胞へと影響を与えている。新型LIAではそれをナノマシンが疑似的に再現し、意図したグリア細胞を励起させる、というわけだ」
「なるほど……」
賀東博士の説明は理に適っていると思えた。従来のLIAに比べるとより生体的な手法だと言えるのかも知れない。
「そこで、近い内に耐電脳体質者である君に新型LIAを試して貰いたいと考えている。通常分とは異なる特別な謝礼金も支払うつもりだ。廻間君、協力しては貰えないだろうか?」
「今更拒んだりはしませんよ。安全面には気を遣って貰えますよね?」
「それはもちろんだとも。理論上は人体への悪影響はないはずだが、研究員一同、細心の注意を払うことを誓おう」
「なら、お任せします」
「ありがとう。それでは、今日のところはいつもの検査室に行ってくれるかね」
「分かりました」
残っていたコーヒーを飲み干すと、私は賀東博士の部屋を後にした。
通路を歩きながら、たった今の話を思い返す。
新型のLIA。もしその実験が成功すれば、ようやく私はこの社会での「普通」になれる。それは昔の私が切に願ったことだったはずだ。
しかし、どうしてだろうか。今の私の胸中には不安が生じていた。
まるで白紙に垂らした墨汁のようにじわりと染み出していく。
その感情は帰宅した後もなかなか消えることはなかった。
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