楽園への扉

吉野玄冬

第1話

 ふと見上げた青空は玻璃のように澄み渡っていた。


 私は自然と手元の本を閉じて、その美しさに心を浸す。

 小さい頃から空を眺めるのが好きだった。時間によって、日によって、季節によって、地域によって、それぞれ違った姿を見せて楽しませてくれる。

 どんな姿も好きだが、特に好きなのは今みたいに透き通った青空だ。果てなくどこまでも続いていると思わせてくれるような、そんな空。


 頭の中は空より広い、とはエミリー・ディキンソンの詩だったか。

 この美しい空も私の頭の中にしか存在しないんだなぁ、と考えさせられる。

 世界とは、脳が五感から受け取った情報を、認識というフィルターを通して構築したものだ。

 誰もが頭の中に世界を宿しており、その様相は千差万別。ピタリと重なる世界は一つたりともない。そういう意味では、人々は別々の世界を生きていると言える。


 だからこそ、この美しい空は私の頭の中にある私だけの空だ。

 もし普遍的な世界が実在するとすれば、それは塗り絵における下絵のような存在なのだろう。各人の認識が色鉛筆となってモノトーンの絵を色づかせていく。

 そうして出来上がったそれぞれ異なる配色の絵こそが、私達にとっての世界。


「……ん」


 突如、辺りに響き渡ったのは授業の終わりを告げるチャイムの音。

 空を眺めながらぼんやりと思索に耽っていた私は、フッと意識を引き戻される。

 野暮なもんだ、と嘆息しながらも視線を下ろすと、高層ビルが無数に乱立する中で一つだけ、天を衝くように長大な塔が目についた。


 ファーマメントタワー。全長1km越えの電波塔だ。

 この数十年で500m級のビルが随分と増えたので、それらの影響を受けない新たな電波塔が必要となったらしく、ちょうど十年前に完成したのがあの塔である。

 最新鋭の技術が様々に盛り込まれており、日本全国へと均等に電波を送ることが可能なのだとか。

 電波塔としては世界的にも最大級なので、今やこの東京都だけでなく日本全体のシンボルとなっている。


 私は胡坐だった両足を乱雑に投げ出し、両腕をグイっと頭上へ伸ばす。読書後はやはり全身が凝るので、こうすると実に気持ちが良い。

 改めて周囲を見渡し、現状を再認する。

 此処は学校の屋上だ。意匠の施された柱や手すりに囲まれた西洋建築風の広々とした空間。

 外縁部の床は石造りだが、内側には丁寧に整備された天然芝が敷かれており、中庭のような作りになっている。

 更にはその一角が僅かに盛り上がった丘のようになっており、そこには立派な大木が鎮座している。

 その大木の根元こそが現在、私が位置している場所だ。頭上では一陣の風に吹かれた葉がさんざめいている。


 天気の良い日に此処に来るのは私の日々の習慣のようなものだ。大木にもたれながら読書を楽しんだり、先程のように空に見入ったり、考え事に耽ったり、時には横になって眠ったり。

 昼休みや放課後ならまだしも、授業の合間にわざわざ屋上までやって来る生徒もいないので、貸し切り状態だ。


 さて、読書の続きでもしようか、と私が呑気に本を開こうとしたところで、屋上の出入り口の側から見覚えのある影が姿を現した。

 彼女は怒り肩で迫って来たかと思えば、ふにゃふにゃした声が飛んでくる。


れい~!」


 彼女の名前はひいらぎ紫織しおり。私のクラスメイトにして幼馴染。

 お姫様のようにふわふわな長髪を、穏やかな風がたなびかせている。

 身に纏ったワンピース型の制服も裾がひらひらと揺らいで見えた。

 私はとりあえず片手を上げて返事をする。


「や、紫織」

「や、じゃないよ、また授業サボって。開始直前までいたはずなのに、いつの間にか教室から姿消してるんだもん」


 ぷりぷりと怒った素振りを見せるが、全然怖くない。小動物のように小柄で愛らしい見た目は、こちらを見下ろしていても威圧感がまるでなかった。唯一、圧を感じさせるのはそのふくよかな胸部くらいだ。


「いやぁ、この雄大な風と青空に誘われてね、あっはっは」

「もうっ……あといつも言ってるけどその座り方は駄目だってば。見えちゃうから」


 私が半ば無意識に片膝を立てて座っていると、僅かに頬を染めた紫織がこちらのスカートを指差す。


「あらま。いやん、紫織ちゃんのえっち」

「…………」


 女子らしく恥じらって見せたつもりだが、紫織はスッと冷めた顔になって無言だった。拳を握り締めてプルプルと震わせている。不評らしい。その人を癒すしか出来ないぷにぷに拳で何をしようと言うのだろう。

 これ以上怒らせるのも酷か、と私は再び胡坐に戻した。すると、紫織も大きく溜息を吐いてから、すぐ隣に腰を下ろした。制服が汚れないようにハンカチを置いてからだ。私には到底思いつかない所作だと言える。

 休み時間になったばかりなので、次の授業まではまだ少し余裕がある。

 二人でのんべんだらりとしていると、紫織は私が持つ本に目をやった。


「また本読んでたの?」

「ああ、うん、そだよ」

「今日はなんて作品?」


「クラーク『幼年期の終わり』。地球上空に突然無数の宇宙船が現れて、その宇宙人達に地球と人類が管理されるようになる話。と言っても、それはまだほんの触りの部分で、そこから色々と展開していくんだけどね」

「へえぇ、面白そう。わたしも読んでみようかな」


 私が手渡すと、紫織は興味深そうに表紙や裏表紙、中身を見分していく。

 彼女は最近の小説くらいしか読まないので、私が読む作品はどれも物珍しいだろう。


「前から思ってたけど、わざわざ紙の本にするのって凄くお金掛かるんじゃないの?」

「まあねぇ……流石にポンポン新しいのは買えないから、これもそうなんだけど、昔から持ってるのを読み直してることも多いよ」


 現代では電子書籍が圧倒的主流であり、新作でさえも紙で出版する量は雀の涙ほどしかない。しかも、電子版に比べると数倍の金額となる。そんな中で昔の作品をわざわざ手に入れるともなれば言わずもがな、というわけだ。

 まだ紙が主流だった頃に出版された物は、保存状態が良好ならとても一学生に手が出せるような金額ではない。保存状態が悪くとも新作何冊分になるのか、という話だ。


 それなら、私のような物好きの為に個別で製本してくれるサービスがあるので、そちらの方が安くつくし状態も当然ながら良好となる。

 とは言え、やはり月々のお小遣い程度では一月に一冊がせいぜいな金額となるが、私にはちょっとした副収入があるので問題なく購入することが可能だった。それに関しては紫織には内緒の話だが。


「単に内容だけを読みたいなら電子書籍でもいいけど、私はこんな青空の下で紙の本を読むっていうシチュエーション自体が好きだからさ」

「分かるような分からないような。わたしはどこで読んでも一緒に感じるかなぁ」


「紫織の認識は『本を読む』っていう一つの行いに分類してるんだろうね」

「黎にとってはそれが細分化されてる?」

「そうそう。どれも好きなんだけど、その中でも優劣があるってわけ」

「なるほどぉ」


 紫織は納得したように頷き、「はい」と私に本を返す。

 その後、広大無辺な蒼穹とうららかな陽の射す側を向き、気持ち良さげに軽い伸びをした。


「でもほんと、今日は良い天気だね。お空がとっても綺麗……昔は黎がぼんやり空を眺めていた意味があんまり分からなかったけど、LIAリアがある今ならよーく分かるよ」

「でしょ? この素晴らしい天気は授業をサボっても仕方ないって、うんうん」

「それとこれとは話が別」

「ちっ」


 話の流れに合わせて言質を取ろうとしたが、紫織は騙されてくれなかった。

 流石にこのまま次の授業もサボるというわけにはいかないらしい。


「ちゃんと受けなきゃ、授業。昔の人達とは違って、LIAのお陰で退屈に思うこともないんだし」

「……ま、そうだね。LIA様様だ」


 紫織はふと手首に着けた携帯端末に触れる。一般的な細身のブレスレット型だ。

 端末の照射した光線が仮想画面ヴァーチャルディスプレイを宙に形成し、現在時刻が表示される。次の授業まで残り五分を切っていた。


「さ、そろそろ戻ろ?」


 彼女はサッと立ち上がると、私に手を差し伸べてきた。

「はあぁ」と私は大きな溜息と共にその手を取って、立ち上がる。

 まるで子供のように手を引かれながら、屋上を後にした。





「――と、このような展開法を二項定理と呼びます。見た目は複雑に見えますが、慣れてしまえば大したことはありません。今後も使う機会は多いので、練習問題をたくさんこなしてキッチリと覚えるようにしましょう」


 壮年の数学教師が、電子黒板に映し出された数式について解説している。

 私は数式を見ると頭が痛くなってしまうタイプなので、教師の話は右から左に淀みなく通り過ぎていた。

 まるで山頂から麓までさやさやと流れ落ちていく川のようだ。水を押し留めるというのは実に困難なのである。

 そんな風に自己擁護しながらボケーっとしているのは私だけで、周りのクラスメイトは何やら頷きながらメモを取っている者ばかりだ。誰もが教師の話を真面目かつ興味深そうに聞いていた。退屈など一切感じていないように見える。


 それも当然だろう。彼らは数学という学問についても、教師の起伏の少ない話のことも、嘘偽りなく好きなのだから。好意的な物事に対して退屈を感じることなどなく、むしろ前のめりな姿勢になるのは自然なことだ。

 しかし、一クラス四十人が何の取り組みもなく、等しくそのように感じるのは流石に無理がある。その裏には現代社会では当たり前となった一つのシステムが存在している。


 LIA。正式名称はLife Imitates Art。

 十九世紀のアイルランド出身の文学者、オスカー・ワイルドが残した「自然は芸術を模倣する」という言葉に由来する。

 それは今からおよそ五十年前にこの日本で開発された身体導入型機器インプランタルデバイスだ。目に見えないほど小さなナノマシンが脳内を循環することで機能する。


 その効用を一言で言い表せば、世界の全てに「好き」という認識のフィルターを掛ける装置だ。

 具体的な働きとしては、ニューロン細胞が生産する各神経伝達物質の量を常に計測モニタリングしており、基準値を下回った場合にグリア細胞へと電気的に干渉することで調節する仕組みとなっている。

 人間が物事に好意的な際の脳状態はとうにモデル化されており、その平均状態が基準値として設定されている。つまり、どんな物事に対してもそれなりに好意的な脳状態となるわけだ。


 元々は精神疾患の治療の為に開発されたらしいが、研究が進むにつれて一般人の生産性および幸福度を上昇させることが判明し、局所的な運用から始まり今や世界中で運用されているほどだ。

 国内で言えば、適正者のLIAの普及率は現在ほぼ百パーセントとなっている。国の方針として長年LIAの導入を推奨してきた結果だろう。


 小学生以下の導入は脳への悪影響の可能性から禁止されているので、中学生になった段階で国から勧める形となっている。もちろん強制ではないが、二十年ほど前からLIAはもはや人々の間では当たり前の存在となっている為、拒否する者はまずいないそうだ。

 そんなこんなで、LIAを導入しているクラスメイト達の様子はごくごくありふれた光景だと言える。


 しかし、私はそのありふれた光景にふと疑問を覚えることがある。

 現代人は脳や自らの意識に対して、科学技術テクノロジーが干渉してくることへの抵抗がなさすぎる。きっとLIAが誕生する以前の人ならこの気持ちを理解してくれることだろう。

 それはほんの一世紀前まではブラックボックスで溢れていた領域だ。しかし、量子技術の発展がそのはらわたを俎上に引きずり出した。

 そうして、誕生した機器の一つがLIAだ。誰もが人や社会の都合が良いように歪めた世界で意志決定を行うようになった。


 だが、それは果たして自らの意志と言えるのだろうか。そこに人の意志はあるのだろうか。

 少なくとも、人類が科学技術に意志決定を委ねる日はそう遠くないと思う。既にそういうレールに乗ってしまっている。そこから逃れるには相応の出来事が必要だ。

 その未来が喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、私には分からない。


「……くぁ」


 私は予期せず生じた欠伸を噛み殺す。途端に瞼が重くなってきた。

 いくらLIAがあろうとも、生理的な反応には叶わない。私のように夜更かしが常習化していて寝不足気味であれば、うっかり寝てしまうこともあるようだ。

 まあ、私以外に授業中に寝ている生徒など見たことはないけど。

 これ以上は起きていられないな、と確信した私は授業中の睡眠を敢行する。両腕を枕に机へと突っ伏した。

 おやすみ。

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