第12話 マスクの下を妄想する愉しみもあるらしい(2枚目6日目・6月15日)

本日の移動距離、僅かに四百メートルなり。

それでも、しっかりと盥に水を張って洗剤を入れる。

少しの買い物にこのような装備は必要なのだろうかという疑問は尽きないが、それでも、玄関に差し掛かることろには白い布が口元を覆う。

習慣といえば習慣となってしまったと言えようが、それ以上に今はマスクを欠かすことはできない。

ただ、冷水に手を浸しながら思い出すのはこの騒動が始まって間もない頃に掲げられていた軒先の紙片であった。


「感染症対策のために従業員がマスクを着用いたします。ご了承ください」

この一文を目にした時の得も言われぬ気持ち悪さというのは、いまだに拭い切れぬものがある。

振り返ってみれば接客業、特に販売を主とする人々のマスク姿を目にすることは少なかったように思う。

飲食業でも前職でゴルフ場のレストランのホール業務に従事する際は、マスクを外すように指示があった。

それほどまでに、私たちは接客を受ける際に顔を重視しているということなのだろうか。

無論、これに対する統計的な回答はない。

ただ、先の文言が示すことは「マスクを着用することが接客において失礼に当たる」という通念がある、もしくは実際にそれによる批判を浴びたということであろう。

必要以上の防御に努めるというのは、その裏にその必要性が生じたということでもある。

風邪が流行しようとも、空気の乾燥で喉が荒れようとも、花粉症に苦しもうともマスクの着用にこのような一瞥が必要であるということだろう。


一方で、つい先日にはこのような文言も目にした。

「熱中症防止のために、従業員がお客様との対面時以外はマスクを外しておりますのをご容赦ください」

この一文を目にした時の得も言われぬ気持ち悪さというのは、同様に拭い切れぬものがある。

宅配業者が先陣を切ってこの断りを入れたように記憶しているが、この一文は先の文言とは全く違いように見せて、その根は全く同じものである。

猛暑の中で駆け回る宅配業者の汗を見れば、そのようなことにかかずらう気持ちなど起きてこようがない。

しかし、見る人によっては無防備な口元だけを捉え、的確に穿つのかもしれない。


そして、極めつけは以下の文言である。

「この非常時に夜の街を出歩き飲み明かすのは何ということか」

「パチンコ店が営業していても良いのか」

「自粛警察など晒し上げてしまえばよい」

これらを同床異夢とするのは言い過ぎであろうか。


すすぎの水を流して絞る際に、ふと呟いてしまった。

「そうか、君も」

故に、今宵は干場に掛ける手がどことなく優しかった。

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