第11話 シャブをしゃぶしゃぶしたわけではない(1枚目6日目・6月14日)

酒を飲んでからマスクを洗おうとすると、火照った身体の慰みになってよい。

特に、強かに飲んだ後であればひとしおなのであるが、今宵はまだかけつけ二杯といったところ。

家での飲みなおしがこの後に控えており、これはいわば箸休めのようなものである。

既に飲んでいるために心は落ち着いている。

今宵はよりゆっくりと構えられそうだ。


さて、この日は夕食を先輩に誘われてご相伴に預かったのであるが、このようなこともおよそ四月以上はなかった。

思えば長い雌伏であったわけだが、間が空いてから来てみるとチェーンの鍋物屋でも色々と疑問がわいてくる。

その代表はつけだれの存在なのであるが、その種類の多さには度肝を抜かれた。

家でしゃぶしゃぶをやるときなどは、昆布出汁一本で済ませてしまうことが多く、それにゴマダレとポン酢醤油がいいところである。

薬味も一通り揃っており、これだけあれば百回訪れてもなお味の変化を楽しめるだろう。

そう思いつつ、紅葉卸と葱にポン酢醤油でいただいたわけであるが、私はすぐに葱のみの皿を準備することとなる。

中々にポン酢の醤油が効いていたのがその一因であるが、それ以上に出汁というよりもスープにそれなりの味がついており、つけだれが不要と感じたからである。

素材もスープもたれの味で蹂躙されてしまったと言い換えることもできるだろう。

しかし、周りを見ればそのようなことをしている人はいない。

ここでもまた、私は少数派の人間となってしまった。


そこで考える必要が出てくるのだが、私の中でのしゃぶしゃぶの捉え方は薄く切った肉を軽く火を通すことでその原初の味でいただくものである。

そのため、先述したゴマダレもポン酢醤油もいただく前から出汁で薄めてしまう。

昆布一本の出汁でやるのも、醤油と合わせて旨味の調和を取るためである。

鍋物をいただくときでも薬味に葱を準備することはあるが、つけだれを準備することは稀である。

こちらはそもそもが出汁に強い味が出ているので、これ以上に味を加えては旨味を増すのではなく塗りつぶしてしまう。

ということは、今はこの味の塗りつぶしというのが流行っているのだろうか、と少し納得した。

しかし、それを疑ったときに初めて従容とした行いだったのではないかという視点が頭をもたげてきた。

思えば、私もスープを頼んだ時点では何も考えずにポン酢醤油を準備していたのであるが、これが既におかしな行いであったのかもしれない。

そもそもが昆布出汁ではないことが脳裏にあった以上、そこでつけだれを使わないという選択肢もあったはずである。

ただ、利用案内にあるつけだれの紹介とビュッフェ形式を見たことで、自分で判断するという選択肢が奪われていたのかもしれない。

ハーメルンの笛というものはかくも巧妙に現代社会では現れ、人々を誘う。

「善意」の言葉が火を齎し、農夫の在り方を奪ったように。


少し酔いが回ったのだろうか、小難しい言葉が出てくるようになってしまった。

干場にマスクをかけて、早速晩酌の続きに入る。

さあ、今宵は一人前の湯豆腐と参ろうか。

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