第10話 勉強会


 家に帰るや否や、俺の帰宅を聞きつけて廊下の奥から足音がバタバタと近づいてきた。


「真尋おかえり!そしてごめんなさい!ごめんなさいっ!!」


 シャーっとフローリングで鮮やかなスライディング土下座をキメる姉、琴葉。下はピンクのパンティ姿だが、今日はTシャツを着ているのでまぁ良しとする。


「こないだは泥酔してて、迷惑かけてごめんなさいっ!」


「姉ちゃん……」


「ついでにTシャツにカレーちょっと付いちゃったごめんなさいっ!なんでもするから!お姉ちゃんなんでもするから許してっ!」


 どうやら先日俺の部屋で泥酔して泣き喚いたことを謝罪しているらしい。まぁ、反省してくれればそれでいいし、母さんから『彼氏さんとは円満に別れたらしいわよ?』と聞いているのでそれも構わない……が。今なんて言った?『なんでもする』って?


「漂泊して落ちればいいけど……それより、本当に『なんでも』してくれるの?」


「うん。『一億くれ』とか言われても無理だけど、お姉ちゃんにできることなら……」


 そうしょんぼりと俯く姉に、俺は好機とばかりに告げる。


「じゃあ、週末にちょっと母さん達と出かけてきてくれない?」


「え?そんなことでいいの?私は別に構わないけど……どうして?」


「それは――」


 七海とウチで勉強会がしたいからだ。


 まさかのまさか、七海の方から『おうちで勉強会しよ?』と持ち掛けられた俺は有頂天。だって、七海が自ら家に招いてくれたんだぞ?それって、どう転んだって俺のことを好意的に見てくれているということだろう。もしくは、信頼に足る存在。それが幼馴染への感情であれ、友人への感情であれ、キライな奴と家で遊ぶなんて考えられないからな。

 七海の口ぶりでは『月・火・水が親不在』。これが何を意味するかというと、あわよくば俺は泊りがけで七海の家にお邪魔できるというわけだ。無論、だからといって七海とワンチャン……なんてつもりは俺には無い。大事な七海をそんないっときの感情や欲望で傷つけようものなら、俺にとってはそれこそ耐えがたいから。しかし、お泊まりすること自体はこれ以上ないほど魅力的な提案である。肩を並べて一緒に夕食を作って、お風呂あがりにソファでごろり……素晴らしい。

 だがその前に、俺は七海と同じ生活空間に長時間いるということに耐性をつけるべきだった。そうでなければいざお泊りしたときに理性が崩壊しかねない。だから、週末にウチで勉強会第一弾を企画しようというわけだ。そのためには――


「七海ちゃんに『古文と漢文教えて?』って言われて。週末にウチで勉強会をしようと思うんだ」


 そこまで言うと、姉は全てを理解した。


「ははぁ……それで、私たちが家にいると邪魔なワケか」


「端的に言うとそう。でも勘違いするなよ?俺は七海ちゃんとゆっくり誰にも邪魔されずに勉強したいだけで、やましい気持ちはこれっぽっちも無いから」


「へぇ……?あの真尋ちゃんがねぇ?ついに大人の階段を――」


「……なにその顔。つか、話聞いてた?絶っっ対!!姉ちゃんの考えてるようなことにはならないから!!とにかく、土日のどっちかでいい。週末は父さんと母さんを連れて外出してきてくれないか?できるだけ長く」


「できるだけ長く」


 にやにや。


「~~っ!そういうのいいからっ!できるの!?できないの!?」


 顔を逸らしながらそう尋ねると、姉は自慢のEカップをぽにょん!と叩いてドヤ顔をした。


「ふっふっふ~!お姉ちゃんに!まっかせなさい!」


      ◇


 そうして週末の土曜。俺は晴れて七海とウチで勉強会をすることとなった。もちろん、今日は泊まりでなくて一緒に部屋で勉強をするだけ。俺にとっては予行演習というわけだ。いくら小さい頃は毎日のようにこうして遊んだとはいえ、お互い10年ぶりともなると十分緊張はする。だって、あの頃とは変わらないようでいて、俺にとっては何もかもが違うわけで――


「ヒロくん、本当にお邪魔してよかったの?」


 そわそわと、私服姿の七海が問いかける。初夏らしい白いパフスリーブのワンピースがさらりとした黒髪とあいまってザ・清楚系という感じ。それでいて肩が緩めのオフショルダーになっていて、若干の大人っぽさを意識しているようだ。前に『ほら、私ってちょっと顔が子どもっぽいから……』なんて言っていたから、今日はがんばってみたのかな?その計らいが既に可愛くて爆発しそう。そんな感情を悟られないようにしながら、俺は美しく完璧に片付けた部屋に七海を通した。


「別にいいよ。他の家族はみんな出かけてるし、しばらく帰って来ないから気にしないで」


 ――そう。姉、琴葉の計らいにより今日は家族そろって遠方のアウトレットまで買い物に行っている。車で片道一時間以上かかるアウトレットモール。姉は両親に『そろそろ父の日だからさぁ?お父さんの欲しいもの探しにアウトレットに行こうよ!お母さんも選ぶの手伝って!』なんて親孝行な誘いをかけて、両親を外へ連れ出した。その間俺は留守番で、七海がウチに来るというのを母さんは知っている。そして母さんも共犯だ。

 姉同様に理解のある母は、『お父さんってば空気読めないとこあるからね。七海ちゃんがおウチに来たら、いらっしゃい!って出て行っちゃうんじゃないかしら?』と笑って買い物に行った。かくいう父さんは、母さんに『久しぶりにパパとデートねぇ?ふふ!』なんて言われたらデレデレしたままついていくしかない。


(……計画は完璧だ。これで俺は七海ちゃんとゆっくり勉強会……)


 部屋に入るや否や、七海はわぁ!と声をあげた。


「ここが、ヒロくんのお部屋……!」


「そ、そんなに驚かなくても。別に普通だよ」


「ううん、私の部屋とは大違い!小物もぬいぐるみも全然ないなんて……さっぱりしててシンプルで、男の子の部屋!って感じだね?」


 綺麗に片付けられた机と椅子、ベッドを見てわくわくとした様子の七海。だが、何を思ったか不意にしゃがみ込んで机の脚をちょこんと指差す。


「あ。これ!」


 見ると、そこには小さな星型のシールが貼ってあった。


「私が貼ったやつだ!」


「ああ、そういえば……一緒に絵本を読んでて、ソレに付いてたおまけのシールだったっけ?」


「そうそう!懐かしいなぁ!まだ貼っててくれたなんて、なんか嬉しい!」


 『ふふふ!』と嬉しそうな七海。


(だって、七海ちゃんが貼ったんだから俺には剥がせるわけないって……)


 そんなことを思いながらローテーブルに飲み物を用意し、俺達は早速勉強を始めた。約束どおり、俺は七海に古文や漢文の基本的な解き方と活用などを教え、俺は七海に英語を教わる。ああでもないこうでもないと言いながら肩を並べて教え合ったあと、しばらくふたりして実践問題を解いていると、不意にこつんと肩に何かが当たった。


(ん……?)


 視線を向けると、七海がうとうとと船をこいで今にも沈みそうだ。そして――


 こてっ。


(……!)


 俺の肩に頭を預けてすよすよと寝息を立て始めた!


「ちょ、七海ちゃん……?」


 声をかけるも、七海は手から完全にシャーペンを落っことし、心地よさそうに背中を上下させている。肩にかかる重みが次第に増していき、バランスを崩しそうになるのを抑えようと、俺は咄嗟に七海の腰と背中に腕を回した。


「七海ちゃん、しっかり!寝ちゃダメ――」


(……待てよ?この状況……ダメじゃなくないか?)


 気が付けば、七海は俺の首元あたりに顔をうずめてむにゃむにゃと唇をもぞつかせている。ふわりとした髪の感触がくすぐったいのも気になるが、なによりも――


(うわ……あったかい。柔らかい……)


 まるで猫……いや、それ以上。ふにゃふにゃとした身体に、大きくて柔らかい胸。しっとりとかかる体重の重みですらも心地が良くて、俺は思わず七海の頭に顔をすり寄せた。


(いい匂いがする……シャンプーと、なんだか甘い……?)


 これが、女の子の匂いというやつなんだろうか。安心するような、ずっと嗅いでいたい匂いだ。


「すぅ……」


 猫吸いならぬ、七海吸い。少し息を吸い込んだだけで鼻から甘い香りが抜けていく。


(はぁ……幸せ……)


 匂いを嗅ぐだけでこれだけの多幸感に包まれるのだから、七海というやつはヤバイ。


「すぅ、はぁ……」


 すりすり……


 ――ハッ……!?


(俺は何をしてっ……!?)


 危うく沼に沈みかけた俺はすんでのところで我に返り、七海の身体をそっと揺する。


「七海ちゃん、起きて……!」


(これ以上は、俺がヤバイから!)


「んん~……?」


「七海ちゃん!」


 呼びかけ虚しく、七海は頬を俺の胸元にすり寄せて夢心地なようだ。


「んふふ……むにゃ……」


 すりすり……


(はぅあ……!可愛い!可愛すぎて起こせない!!)


「んむ……ヒロくん……」


(え?今、俺のこと呼んだ……?いったいどんな夢を見てるんだろう……?)


「ヒロ、くん……(♡)」


(……!! 今! 絶対語尾にはぁと付いてた!!)


 幻聴だろうがなんだろうがそう思ったんだからしょうがない。愛しさがこみ上げて、支えた身体を思わずぎゅっとすると、七海は目を覚ました。ぼんやりと開いた瞳に、俺が映る。


「ん……?ヒロくん……?」


「……あ。七海ちゃん……」


 もはや七海を抱き締めたような体勢になっている(事実、さっき一瞬抱き締めた)俺に言い逃れの余地はない。拒絶されるかと内心でどきどきしている俺に、七海は――


「ごめん……寝てた……?」


「うん、寝てた……」


「だって、なんだかあったかくて気持ちよくて……そっか。ヒロくんが支えてくれてたんだね?」


「あ。うん……」


「えへへ。ありがとう……♡」


(……!)


 その日から俺は、七海の語尾に悉くハートが付くという強めの幻覚を見始めたのだった。

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